http://www2.memenet.or.jp/kinugawa/hp/hp633.htm 日本で完成した「たたら製鉄」 たたら製鉄は、粘土でつくった箱の形をした低い炉に、原料の砂鉄と還元のための木 炭を入れて、風を送り、鉄を取り出す日本古来からの鉄を作る技術です。 6世紀後半( 古墳時代後期)に朝鮮半島から伝えられ、江戸時代中期に技術的に完成しました。 昼夜にわたる鉄づくり(現在行われている日刀保たたらでは)砂鉄を集めて、炭を作り 、炉を作ってから操業が始まります。 炉の下から風を送りながら、木炭と砂鉄をかわ るがわる入れます。時間がたつとともに、砂鉄は還元され鉄になります。 さらに炭素 を吸収してズクが炉の下の穴から流れ出ます。そして最後にケラができます。1回の操 業は、3昼夜、約70時間にもおよび、 炉の壁が侵食されて薄くなり、耐えられなく なったところで終了します。炉の壁の成分と砂鉄が反応して生まれたフロ(スラグ)」は 、 鉄の不純物を取り除き、再酸化を防ぐ役割をします。 「たたら製鉄」から生まれる鉄 そのようにして炉の底にできた鉄の塊は、砕いてノロや木炭を取り除いた後、品質や大 きさで数種類の等級の「ズク(銑)」や「ケラ(鉧)」などに分けられます。 硬くて脆い ズクは、「大鍛冶場」でさらに不純物を絞り出し、炭素量を調整して、生活に必要な道 具の材料となりました。 ケラの中でも不純物の少ない良質な鋼「玉鋼」は日本刀の材 料となります。少量ですが簡単な構造で、優れた鉄を作ることができるrたたら」は、 今日でも鉄づくりについて貴重なメッセージを送ってくれています。 画像をクリックすると、たたら製鉄の全プロセスが現れます。 鉄の未来の『新・モノ語り』 新日本製鐵(株) 2004年 より 釘づくり 一曜斎 国輝 たたら製鉄では刀鍛冶用の玉鋼のほかに包丁鉄とずく鉄(鋳造用)を生産していまし た。 江戸時代の釘づくりは包丁鉄を素材として、赤熱した素材を必要な巾にタガネで 切り落とし 釘の素材としました。現在のように丸い断面を持つ鉄線からの製作ではな く、角材に近い素材なのです。 船釘やふすま釘など断面が正方形や長方形の釘がほとんどでした。唯一、丸断面を持 つものは 城や寺社の瓦を止めた、大きな瓦釘くらいではないでしょうか?写真の釘は 書写山円教寺(姫路市)の 塔頭(たっちゅう)十妙院修理の時に得られたものです。 寺院の古文書によれば1558(永禄元)年に 建てられたものです。しかし、建築様式か らみると江戸時代初期ではないかとも言われています。 現在の金物産地のうち、三条(新潟県)、鞆(広島県)などは釘鍛冶から発展したと 言われています。 姫路ではわずかに『ふすま釘』が生産されています。この絵は『衣 食住之内家職幼絵解之図』によります。 『衣食住之内家職幼絵解之図』は33枚から成り、明治6年、文部省から教育用として出 版された。 筆者は一曜斎国輝(二代)である。天保元年に生れ、明治7年に没、45歳で あった。明治初期の開化風景、 また文部省などの需めにより多くの教育用の錦画を製 作している。本図は明治ではあるが、なお江戸期の 職人の活動をそのまま伝えている 。 日本の技術 産業技術を描く 吉田光邦 著 第一法規出版 1988年 錬鉄 七枝刀 目の後ろにバネが入っています 錬鉄とは良く錬られた鉄のことです。昔、日本の製鉄は温度が低く鉄の融点1535 ℃ までは上昇しませんでした。そこで、溶けてしまわないスポンジ状の鉄塊、海綿鉄 を作り ました。 この鉄を何度も何度も折り返し鍛接して、鉄滓(てっさい=不純物)を取り除き鉄を 作 ります。こんな鉄のことを『百錬』の鉄と言いました。大鍛冶屋の作った割鉄(包 丁鉄) では炭素量が0.1 %程度です。イギリスで言うロートアイロン(錬鉄)も良く 似た鉄です。 奈良県天理市の石上(いそのかみ)神宮に古来より神宝として伝えられた鉄剣。『七 枝刀』 は左右交互に各3個の分枝をもつ特異な形状で、<日本書紀>神功紀52年条 の〈七枝刀 (ななつさやのたち)〉だと言われています。この刀身の表裏両面に金象 嵌された61文字 の銘文があります。判読が困難な部分が多く、色々の案が出されて いますが、ここでは、 古田武彦(ふるた・たけひこ)氏の説『古代は輝いていたI』 (朝日新聞社 1985)か ら紹介します。 剣の形状をしてはいますが、突き出した枝は戦闘には使えず、柄を固定するための目釘 穴もありません。戦場で使うためではなく、儀礼のために作られた珍しい形の剣です 。 《表面》 泰和四年五月十六日丙午正陽 造百練□七支刀 □辟百兵 宜供供侯王 □□□□作 解釈:泰和4年(369)5月16日の丙午正陽に、くりかえし鍛え抜いた七 支刀を造った。おびただしい軍兵をしりぞける(に足りる霊力をもつ)。 これは(中国の天子の外臣たる)侯王に供するにふさわしいものである。 某々作。 《裏面》 先世以来 未有此刃 百済王世子 奇生聖晋 故為倭王 旨造 伝示□世 解釈:先の世以来、かつてこのような刃(じん=ほこ)はなかった。百済王と その世子は、聖晋のもとにその生を寄りどころにしている。故に(同じ 東晋の天子の配下の侯王たる)倭王の為に造った。伝えて(後)世に示 さんことを。 5世紀の古墳時代の出土品に立派な冑(かぶと)と鎧(よろい)がありました。野球帽 の頂点に円い輪をつけ、 ひさしには模様を刻みこんであります。現在、こんな冑を作 れる職人さんが有るのだろうか?古代の鍛冶屋の 力量に感激しました。 (眉庇付冑=まびさしつきかぶと、熊本 マロ塚古墳 出土) 倭国展の資料には甲冑の説明が以下のようになされていました。 甲冑(かっちゅう) 古墳時代には、鉄板を組み合わせて作った、短甲(たんこう)が古墳に副葬される。 鉄製の甲の出現は武器の 発達をうながし、戦いの方法も大き(変化させた。初めの頃 、短甲は縦長の鉄板を組み合わせ、これを革ひもで とじ合わせたものであったが、次 に方形の鉄板に変わり、さらに三角形の鉄板を多く組み合わせる形に変わった。 そし て、5世紀には鉄板のつなぎかたも革ひもから鉄の鋲(びょう)でとめる方法に変わっ ていった。また、 この頃には、騎馬に通した挂甲(けいこう)も出現した。他方、冑 (かぶと)には、先端が尖った 衝角付冑(しょうかくつきかぶと)と、前部に庇(ひ さし)が付いた眉庇付冑(まびさしつきかぶと)があった。 1993年3月、京都国立博物館 倭国展 資料より 日本最古のくさり 鉄鐸(さなぎ) 信濃国一の宮として全国に1万余の御分社をもつ諏訪大社は、諏訪湖を隔てて南北に 上社、下社があります。 上社は本宮と前宮に、下社は春宮と秋宮に別れており、これ ら4社を合わせて諏訪大社と言います。 上社の祭神は建御名方命(たけみなかたのみこ と)、下社はその妻の八坂刀売命(やさかとめのみこと)で、 武神・農耕神・狩猟神 ・風神として武田信玄など武将の信仰も集めました。社殿は四方を御柱(おんばしら) に囲まれ、 その内部に東西宝殿、幣殿、拝殿などが配置された諏訪造。上社にはその 背後に神体山(しんたいざん)が、 下社には神木が立つ。建御名方命は出雲神話の国 譲り伝説に登場し、破れて信濃に逃げてきた神です。 ここには『湛(たたえ)神事』と言われる、古くから行われている行事があります。 その儀式に使われる高鉾に付けられた鉄鐸(さなぎ)は銅鐸の原型と目され、弥生時代 から使われていたのかも知れません。 鉄鐸は鍛鉄で作られ高さ約18cm厚さ1.7㎜程度です。鐸の中にぶらさげられた舌(ぜ つ)は8角形の断面を持っています。 鈴のような綺麗な音ではなく、ガシャンガシャン という鉄管の触れ合う音で決して荘厳な音ではなかった、と著者は記しています。 かんぬきに留められた吊り環は舌をぶらさげ、上はひもで鉾につながれた3ケつなぎ のリンクです。 番号3は溶接なしのリンクですが4は上下のリンクが鍛接リンクのよ うです。又、6は3リンクとも鍛接されています。 この鉄鐸とリンクが同じ時期のも のとすれば日本最古、弥生時代の鎖です。 もちろん、傷みによって何度か修理もされ ているようですが。 参考図書 銅鐸 藤森栄一 学生社 1964年 たたら製鉄 用語集 ケラと読みます ☆ タタラ(高殿) タタラとは野鈩(のたたら、露天精錬)の頃は精錬炉をいい、近世に、屋内精錬 に 移行すると、建物をタタラ(高殿)といい、つぎに付属設備を含めたものをタタラ ( 鈩)または、タタラ場と呼ぶようになった。 タタラとはタタール人(ダッタン人)の技法が中央アジアから朝鮮半島を経て日 本 に伝わったものともいう。また古来日本でフイゴをタタラといっていたが、のちに 製 鉄炉をさすようになったともいわれる。 ☆ 天秤フイゴ フイゴはタタラ製鉄を行う時に炉内に空気を送り火力をあげるための装置。 天秤フイゴは出雲では元禄4年(1691)、石見(島根県)では享保年間(1 7 00年頃)から使用したといわれる。和鋼博物館に展示のフイゴは明治24年製で 、 石見の若杉タタラで使用していた一人踏みのヤグラ天秤ではある。交代ではあるが 、 三昼夜の送風は過酷な労働であった。 ☆ ケラ タタラの炉(釜)底にできた鉄塊で炉をこわして引き出す。 重量は2.5~3.5t。鋼、鉄、銑などが含まれている。 ☆ 玉鋼(たまはがね) ケラは冷却した後、細かく破砕し、玉鋼その他に分ける。玉鋼一級品は純度が極 めて 高く、最上の日本刀材料で、50年経過しても美しい金属的な光を発している。玉 鋼 のほかに目白、砂味(じゃみ)、ケラ銑(けらづく)があって、日本刀以外の用途 に使 用した。 ☆ 銑(ずく) ケラには鋼のほかに流し銑(ずく)とかケラ銑(けらずく)とができる。流し 銑は製鉄炉(釜)の湯地口から流れ出たもの。ケラ銑はケラを破砕した時に出る銑 であっ て、いずれも鋳物の材料とか、包丁鉄の原料に使用した。炭素1.7%以下のもの 。 ☆ 包丁鉄(ほうちょうてつ)錬鉄(れんてつ) 銑(ずく)や歩ケラ(ぶけら)(玉鋼と銑の中間の炭素量)を大鍛冶場の火窪( ほど )で脱炭し鍛冶して作ったもの。“割り鉄”とも“延べ鉄”ともいい、低炭素の錬 鉄 で、刀工はこれを刀の心鉄にするが、一般的には日用刃物・釘その他の柔らかい鉄 材 料に使用した。 ☆ 砂鉄(タタラ製鉄の原料) 砂鉄は採取の場所により山砂鉄、川砂鉄、浜砂鉄と 呼ぶ。また 中国地方の山砂鉄は真砂(まさ)と赤目(あこめ)に分かれる。 玉鋼を造るケラ押法(けらおしほう)には純度の高い真砂砂鉄を用い、 銑押法( ずくおしほう)(鋳物及び、包丁鉄の原料になる銑鉄を つくる)では赤目砂鉄を 用いた。 ☆ 木炭(砂鉄還元に使用) タタラ吹きに使用する木炭は主に「なら」「 まき」「ぶな」 「くぬぎ」でその他に用いた雑木、地方によっては、 松 、栗を用いた。錬鉄をつくる大鍛冶場では主に松炭を用いた。 ☆ 釜土(粘土) 築 炉用の粘土は苦心して選んだ。花崗岩の風化したもので珪酸 (SiO2 )が適量 で適度な耐火性と鉱滓を造る性質をもつことが 必要で、また、不純物も少ない ことが条件であった。 和鋼博物館 資料による たたら考 小林家に伝わる製鉄図 部分 たたら考 『たたら』という発音が、製鉄というプロセスにあてはめられたのは、まさに奇妙で す。たたらは 鑪・鈩・蹈鞴・踏鞴・高殿、など色々な文字で表されます。 元々、踏みふいごのことか?平安時代(934年)の百科辞典、『和名類聚抄』には踏 みふいごの事と書かれています。 江戸時代になって永代たたらが生まれその工場を高 殿と書き、たたらと呼ばれました。 たたらの語源 中央アジアの民族タタール人が持っていふいた『皮袋』が、製鉄作業の送風器具(吹 子)に使われたところから、 『たたら』と名付けられたとも、インド地方の言語『タ タール=猛火の意味』から転化したとも言われます。 図は岩手県の小林家に伝わる製 鉄絵図の皮吹子です。 たたらを踏む 歌舞伎や芝居の『たたらを踏む』という動作は、製鉄の時に風を送る『吹子』を脚で 踏む動作と よく似ているところから、名付けられたという。 ちなみに、先年大勢の人が見たアニメ『もののけ姫』にも主人公アシタカが踏みふい ごを踏む場面がでてきました。 野たたら 古代の製鉄場所。製鉄に必要な風を得るため、風当たりの強い小高い丘の斜面に、く ぼみを造り(火窪、ほと)、 これに砂鉄と木炭を入れ、竹製の管で送風して溶解還元 させ、鉄を炉底に集める原始的なやり方。 たたら考 2 吉田村 菅谷高殿 永代たたら 製鉄は山定の場所に高殿(たたら)という製鉄工場を建て、ここに炉を築いて、計画 的に 生産されるようになる。これを永代たたらという。図は島根県仁多郡吉田村の菅 谷高殿です。 たたら製鉄 たたら製鉄は、三昼夜もしくは四昼夜の日程をもって、一回の製鉄を完了する。 こ の三~四昼夜を『一代』(ひとよ)という。これを一年間に″六十代″繰り返す。 大 体年間に180トン程度の生産能力であったらしい。 日本語大辞典(講談社)には以下の説明がありました。 たたら (蹈・鞴・踏鞴) 足踏み式の大型鞴(ふいご) たたらの操業風景 横田町 たたら・ぶき(蹈・鞴吹き) 日本古来の製鉄法。砂鉄と木炭を交互に方形の炉へ入れ、鞴(ふいご)で風を送り、 木炭を燃暁させて砂鉄を還元。ケラ押炉で和鋼を、銑押炉で和銑(わずく)を製造。 写真は日刀保たたらで操業中の木原村下(むらげ) たたらづくり 陶器製造において、粘土のかたまりの左右にたたら棒という板を置き、糸を使って粘 土を スライスする方法を言います。皿などを製作する時に使う方法です。 たたら製鉄法においては粘土を大きなサイコロ状にしたものを積み上げ、元釜・中釜 と作ります。 このとき独特の定規を使って炉の寸法を決めてゆきます。陶器製造と製 鉄は共に高温を制御する ことにより可能になるので、『陶・鉄、同根』などといわれ ます。どこかに共通点がありそうです。 参考図書 タイムトラベル横田 横田町ふるさと町民会議 1989年 金属の百科事典 丸善(株) 1999年 日本語大辞典 講談社 1989年
今回は
日立金属のページから
http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp020101.htm
引用ばかりですが、先ずひととおり、お勉強しよう。
稲作と鉄の伝来
●鉄の使用の始まり
現在のところ、我が国で見つかった最も古い鉄器は、縄文時代晩期、つまり紀元前3~4世紀のもので、福岡県糸島郡二丈町の石崎曲り田遺跡の住居址から出土した板状鉄斧(鍛造品)の頭部です。鉄器が稲作農耕の始まった時期から石器と共用されていたことは、稲作と鉄が大陸からほぼ同時に伝来したことを暗示するものではないでしょうか。
石崎曲り田遺跡から出土した板状鉄斧
(出典:「弥生の鉄文化とその世界」北九州市立考古博物館)
弥生時代前期(紀元前2~3世紀)から次第に水田開発が活発となり、前期後半には平野部は飽和状態に達して高地に集落が形成されるようになります。
さらに土地を巡る闘争が激しくなり、周りに濠を回らした環濠集落が高台に築かれます。京都府の丹後半島にある扇谷遺跡では幅最大6m、深さ4.2m、長さ850mに及ぶ二重V字溝が作られていますが、そこから鉄斧や鍛冶滓が見つかっています。弥生時代前期後半の綾羅木遺跡(下関市)では、板状鉄斧、ノミ、やりがんな、加工前の素材などが発見されています。しかし、この頃はまだ武器、農具とも石器が主体です。
◎水田開発で人口が増え、おまけに海のかなたからやってくる人々で満員になっちゃったんだね。だから新しい土地を求めて日本各地に散らばっていったのか。神武もその中の一派だったんでしょうね。東北あたりは又別のルートで日本列島に来たみたいだけど、、、。
朝鮮半島との交流
弥生時代中期(紀元前1世紀~紀元1世紀)になると青銅器が国産されるようになり、首長の権力も大きくなって北部九州には鏡、剣、玉の3点セットの副葬が盛んになります。朝鮮半島南部との交易も盛んで、大陸からの青銅器や土器のほかに、鉄器の交易が行われたことが釜山近郊の金海貝塚の出土品から伺われます。
弥生時代中期中頃(紀元前後)になると鉄器は急速に普及します。それによって、稲作の生産性が上がり、低湿地の灌漑や排水が行われ、各地に国が芽生えます。
後漢の班固(ad32~92)の撰になる『前漢書』に「それ楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国となる。歳時を以て来り献じ見ゆと云う」との記事がありますが、当時倭人が半島の楽浪郡(前漢の植民地)を通じて中国との交流もやっていたことが分かります。実際、弥生中期の九州北部の墓から楽浪系の遺物(鏡、銭貨、鉄剣、鉄刀、刀子、銅製品など)が多数出土しています。
この中に有樋式鉄戈(てっか)がありますが、調査の結果によると鋳造品で、しかも炭素量が低いので鋳鉄脱炭鋼でないかと推定されています。
◎専門的になりすぎて分かりにくいのでこのままながします。
福岡県春日市の門田遺跡から出土した有樋式鉄戈(てっか)
(出典:「弥生の鉄文化とその世界」北九州市立考古博物館)
●鉄の加工の始まり
鍛冶工房
ここでいう鉄の加工とは、後世まで引き継がれる鉄の鍛冶加工のことです。鉄器の製作を示す弥生時代の鍛冶工房はかなりの数(十数カ所)発見されています。中には縄文時代晩期の遺物を含む炉のような遺構で鉄滓が発見された例(長崎県小原下遺跡)もあります。 弥生時代中期中頃の福岡県春日市の赤井手遺跡は鉄器未製品を伴う鍛冶工房で、これらの鉄片の中に加熱により一部熔融した形跡の認められるものもあり、かなりの高温が得られていたことが分かります。
赤井手遺跡で見つかった鉄素材片
(出典:「弥生の鉄文化とその世界」北九州市立考古博物館)
発掘例を見ると、鉄の加工は弥生時代中期(紀元前後)に始まったと見てまず間違いないでしょう。しかし、本当にしっかりした鍛冶遺跡はないのです。例えば、炉のほかに吹子、鉄片、鉄滓、鍛冶道具のそろった遺跡はありません。また、鉄滓の調査結果によれば、ほとんどが鉄鉱石を原料とする鍛冶滓と判断されています。鉄製鍛冶工具が現れるのは古墳時代中期(5世紀)になってからです。
○鉄器の普及この弥生時代中期中葉から後半(1世紀)にかけては、北部九州では鉄器が普及し、石器が消滅する時期です。ただし、鉄器の普及については地域差が大きく、全国的に見れば、弥生時代後期後半(3世紀)に鉄器への転換がほぼ完了することになります。
さて、このような多量の鉄器を作るには多量の鉄素材が必要です。製鉄がまだ行われていないとすれば、大陸から輸入しなければなりません。『魏志』東夷伝弁辰条に「国、鉄を出す。韓、ワイ(さんずいに歳)、倭みな従ってこれを取る。諸市買うにみな鉄を用い、中国の銭を用いるが如し」とありますから、鉄を朝鮮半島から輸入していたことは確かでしょう。
では、どんな形で輸入していたのでしょうか?
鉄鉱石、ケラのような還元鉄の塊、銑鉄魂、鍛造鉄片、鉄テイ(かねへんに廷、長方形の鉄板状のもので加工素材や貨幣として用いられた)などが考えられますが、まだよく分かっていません。
日本では弥生時代中期ないし後期には鍛冶は行っていますので、その鉄原料としては、恐らくケラ(素鉄塊)か、鉄テイの形で輸入したものでしょう。銑鉄の脱炭技術(ズク卸)は後世になると思われます。
●製鉄の始まり
日本で製鉄(鉄を製錬すること)が始まったのはいつからでしょうか?
弥生時代に製鉄はなかった?
弥生時代の確実な製鉄遺跡が発見されていないので、弥生時代に製鉄はなかったというのが現在の定説です。
今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れますが(広島県カナクロ谷遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ますと、5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当と思われます。
古代製鉄所跡の発掘現場(6世紀後半の遠所遺跡群)
弥生時代に製鉄はあった?
一方で、弥生時代に製鉄はあったとする根強い意見もあります。それは、製鉄炉の発見はないものの、次のような考古学的背景を重視するからです。
1)弥生時代中期以降急速に石器は姿を消し、鉄器が全国に普及する。
2)ドイツ、イギリスなど外国では鉄器の使用と製鉄は同時期である。
3)弥生時代にガラス製作技術があり、1400~1500℃の高温度が得られていた。
4)弥生時代後期(2~3世紀)には大型銅鐸が鋳造され、東アジアで屈指の優れた冶金技術をもっていた。
最近発掘された広島県三原市の小丸遺跡は3世紀、すなわち弥生時代後期の製鉄遺跡ではないかとマスコミに騒がれました。そのほかにも広島県の京野遺跡(千代田町)、西本6号遺跡(東広島市)など弥生時代から古墳時代にかけての製鉄址ではないかといわれるものも発掘されています。
弥生時代末期の鉄器の普及と、その供給源の間の不合理な時間的ギャップを説明するため、当時すべての鉄原料は朝鮮半島に依存していたという説が今までは主流でした。しかし、これらの遺跡の発見により、いよいよ新しい古代製鉄のページが開かれるかもしれませんね。
島根県今佐屋山遺跡の製鉄炉近くで見つかった鉄滓(和鋼博物館)
*鉄滓は鉄を製錬した時の不純物。
◎「ひもろぎ逍遥」に葦の根に鉄バクテリアが集まってできる「スズ鉄・古代鉄」について書いてあります。
http://lunabura.exblog.jp/i30
とてもエクサイティングな内容です。本当に古い昔から、鉄をみつけていたのですね。
「スズ鉄」は日本各地にその痕跡があります。でもやっぱり、採れるのは少量だったようです。
●6世紀頃に画期を迎えた製鉄技術
いずれにしても、我が国における製鉄技術は、6世紀頃に画期を迎えたことは確かでしょう。それ以前に弥生製鉄法があったとしても、恐らく小型の炉を用い、少量の還元鉄を得て、主に鍛冶で錬鉄に鍛えるというような、原始的で、非常に小規模なものだったと思われます。この6世紀の画期は朝鮮半島からの渡来工人の技術によってもたらされたものでしょう。
古事記によれば応神天皇の御代に百済(くだら)より韓鍛冶(からかぬち)卓素が来朝したとあり、また、敏達天皇12年(583年)、新羅(しらぎ)より優れた鍛冶工を招聘し、刃金の鍛冶技術の伝授を受けたと記されています。
その技術内容は不明ですが、恐らく鉄鉱石を原料とする箱型炉による製鉄法ではなかったでしょうか。この中には新しい吹子技術や銑鉄を脱炭し、鍛冶する大鍛冶的技術も含まれていたかもしれません。
この官制の製鉄法は、大和朝廷の中枢を形成する大和、吉備に伝えられ、鉄鉱石による製鉄を古代の一時期盛行させたのではないでしょうか。
一方、出雲を中心とする砂鉄製錬の系譜があります。
これがいつ、どこから伝えられたか分かりませんが、恐らく6世紀の技術革新の時代以前からあったのでしょう。やがて、伝来した技術のうち箱型炉製鉄法を取り入れて、古来の砂鉄製鉄と折衷した古代たたら製鉄法が生まれたのではないでしょうか。
古代製鉄の謎は、我が国古代史の謎と同じようにまだ深い霧に包まれています。
●古代のたたら
砂鉄か、鉄鉱石か
近世たたら製鉄では鉄原料として、もっぱら砂鉄を用いていますが、古代では鉄鉱石を用いている例が多いようです。
次の図は中国地方における古代から中世にかけての製鉄遺跡の分布とその使用鉄原料を示したものですが、鉄鉱石を使っているのは古代の山陽側(とくに備前、備中、備後)と、ここには示していませんが、琵琶湖周辺に限られているようです。山陰側その他は、ほとんど砂鉄を用いています。このことは製鉄技術の伝来ルートに違いがあることを暗示しているのかもしれません。
古代~中世の製鉄遺跡における使用鉄原料
炉の形状
炉の形状は古墳時代の段階では円形、楕円形、方形、長方形と多様です。古代(8~9世紀)になると長方形箱型炉に次第に統一されていきます。
一方、東国では8世紀初頭より半地下式竪型炉が現れ、9世紀には日本海沿岸地域にも広まって、東日本を代表する製鉄炉となっていき、10世紀には九州にも拡散が認められます。この竪型炉は各地での自給的生産を担っていましたが、中世には衰微します。このような西日本と東日本の炉形の違いはなぜ生じたのでしょうか?東と西で製鉄のルーツが違うのでしょうか?まだまだ分からないことが多いのです。
各種古代製鉄炉の分布
出典:古代の製鉄遺跡(製鉄と鍛冶シンポジウム、於広島大学)土佐雅彦、1995、12月
中世のたたら
中国山地への集中と炉の大型化
中世になると鉄の生産は、主に中国地方、特に近世たたら製鉄の発達した中国山地に集中するようになります。鉄原料はほとんど砂鉄です。
11世紀から13世紀にかけて広島県大矢遺跡など見られるように炉の大型化、地下構造の発達などの画期を迎えます。長方形箱型炉の炉床は舟底形となり、炉体も長さ2m、幅1m程度と近世たたらの規模に近づいてきます。14世紀後半から15世紀に入ると、広島県の石神遺跡や島根県の下稲迫遺跡(しもいなさこいせき)のように本床、小舟状遺構を持ち、近世たたらに極めて近い炉形、地下構造となります。
時代が下るにつれて大型化する傾向が分かります。