2016年5月31日火曜日

たたら製鉄

http://www2.memenet.or.jp/kinugawa/hp/hp633.htm

 日本で完成した「たたら製鉄」

 たたら製鉄は、粘土でつくった箱の形をした低い炉に、原料の砂鉄と還元のための木
炭を入れて、風を送り、鉄を取り出す日本古来からの鉄を作る技術です。 6世紀後半(
古墳時代後期)に朝鮮半島から伝えられ、江戸時代中期に技術的に完成しました。

 昼夜にわたる鉄づくり(現在行われている日刀保たたらでは)砂鉄を集めて、炭を作り
、炉を作ってから操業が始まります。 炉の下から風を送りながら、木炭と砂鉄をかわ
るがわる入れます。時間がたつとともに、砂鉄は還元され鉄になります。 さらに炭素
を吸収してズクが炉の下の穴から流れ出ます。そして最後にケラができます。1回の操
業は、3昼夜、約70時間にもおよび、 炉の壁が侵食されて薄くなり、耐えられなく
なったところで終了します。炉の壁の成分と砂鉄が反応して生まれたフロ(スラグ)」は
、 鉄の不純物を取り除き、再酸化を防ぐ役割をします。

「たたら製鉄」から生まれる鉄

そのようにして炉の底にできた鉄の塊は、砕いてノロや木炭を取り除いた後、品質や大
きさで数種類の等級の「ズク(銑)」や「ケラ(鉧)」などに分けられます。 硬くて脆い
ズクは、「大鍛冶場」でさらに不純物を絞り出し、炭素量を調整して、生活に必要な道
具の材料となりました。 ケラの中でも不純物の少ない良質な鋼「玉鋼」は日本刀の材
料となります。少量ですが簡単な構造で、優れた鉄を作ることができるrたたら」は、 
今日でも鉄づくりについて貴重なメッセージを送ってくれています。 

画像をクリックすると、たたら製鉄の全プロセスが現れます。

鉄の未来の『新・モノ語り』  新日本製鐵(株) 2004年 より 

釘づくり  一曜斎 国輝

 たたら製鉄では刀鍛冶用の玉鋼のほかに包丁鉄とずく鉄(鋳造用)を生産していまし
た。 江戸時代の釘づくりは包丁鉄を素材として、赤熱した素材を必要な巾にタガネで
切り落とし 釘の素材としました。現在のように丸い断面を持つ鉄線からの製作ではな
く、角材に近い素材なのです。

 船釘やふすま釘など断面が正方形や長方形の釘がほとんどでした。唯一、丸断面を持
つものは 城や寺社の瓦を止めた、大きな瓦釘くらいではないでしょうか?写真の釘は
書写山円教寺(姫路市)の 塔頭(たっちゅう)十妙院修理の時に得られたものです。
寺院の古文書によれば1558(永禄元)年に 建てられたものです。しかし、建築様式か
らみると江戸時代初期ではないかとも言われています。

 現在の金物産地のうち、三条(新潟県)、鞆(広島県)などは釘鍛冶から発展したと
言われています。 姫路ではわずかに『ふすま釘』が生産されています。この絵は『衣
食住之内家職幼絵解之図』によります。


『衣食住之内家職幼絵解之図』は33枚から成り、明治6年、文部省から教育用として出
版された。 筆者は一曜斎国輝(二代)である。天保元年に生れ、明治7年に没、45歳で
あった。明治初期の開化風景、 また文部省などの需めにより多くの教育用の錦画を製
作している。本図は明治ではあるが、なお江戸期の 職人の活動をそのまま伝えている
。


日本の技術 産業技術を描く  吉田光邦 著 第一法規出版 1988年

錬鉄 七枝刀

 目の後ろにバネが入っています
 錬鉄とは良く錬られた鉄のことです。昔、日本の製鉄は温度が低く鉄の融点1535
℃ までは上昇しませんでした。そこで、溶けてしまわないスポンジ状の鉄塊、海綿鉄
を作り ました。

 この鉄を何度も何度も折り返し鍛接して、鉄滓(てっさい=不純物)を取り除き鉄を
作 ります。こんな鉄のことを『百錬』の鉄と言いました。大鍛冶屋の作った割鉄(包
丁鉄) では炭素量が0.1 %程度です。イギリスで言うロートアイロン(錬鉄)も良く
似た鉄です。

 奈良県天理市の石上(いそのかみ)神宮に古来より神宝として伝えられた鉄剣。『七
枝刀』 は左右交互に各3個の分枝をもつ特異な形状で、<日本書紀>神功紀52年条
の〈七枝刀 (ななつさやのたち)〉だと言われています。この刀身の表裏両面に金象
嵌された61文字 の銘文があります。判読が困難な部分が多く、色々の案が出されて
いますが、ここでは、 古田武彦(ふるた・たけひこ)氏の説『古代は輝いていたI』
(朝日新聞社 1985)か ら紹介します。

剣の形状をしてはいますが、突き出した枝は戦闘には使えず、柄を固定するための目釘
 穴もありません。戦場で使うためではなく、儀礼のために作られた珍しい形の剣です
。

《表面》  泰和四年五月十六日丙午正陽 造百練□七支刀 □辟百兵 宜供供侯王 
□□□□作

 解釈:泰和4年(369)5月16日の丙午正陽に、くりかえし鍛え抜いた七
    支刀を造った。おびただしい軍兵をしりぞける(に足りる霊力をもつ)。
    これは(中国の天子の外臣たる)侯王に供するにふさわしいものである。
    某々作。 《裏面》  先世以来 未有此刃 百済王世子 奇生聖晋 故為倭王
旨造 伝示□世

 解釈:先の世以来、かつてこのような刃(じん=ほこ)はなかった。百済王と
    その世子は、聖晋のもとにその生を寄りどころにしている。故に(同じ
    東晋の天子の配下の侯王たる)倭王の為に造った。伝えて(後)世に示
    さんことを。 

5世紀の古墳時代の出土品に立派な冑(かぶと)と鎧(よろい)がありました。野球帽
の頂点に円い輪をつけ、 ひさしには模様を刻みこんであります。現在、こんな冑を作
れる職人さんが有るのだろうか?古代の鍛冶屋の 力量に感激しました。
(眉庇付冑=まびさしつきかぶと、熊本 マロ塚古墳 出土) 
 倭国展の資料には甲冑の説明が以下のようになされていました。

甲冑(かっちゅう)
 古墳時代には、鉄板を組み合わせて作った、短甲(たんこう)が古墳に副葬される。
鉄製の甲の出現は武器の 発達をうながし、戦いの方法も大き(変化させた。初めの頃
、短甲は縦長の鉄板を組み合わせ、これを革ひもで とじ合わせたものであったが、次
に方形の鉄板に変わり、さらに三角形の鉄板を多く組み合わせる形に変わった。 そし
て、5世紀には鉄板のつなぎかたも革ひもから鉄の鋲(びょう)でとめる方法に変わっ
ていった。また、 この頃には、騎馬に通した挂甲(けいこう)も出現した。他方、冑
(かぶと)には、先端が尖った 衝角付冑(しょうかくつきかぶと)と、前部に庇(ひ
さし)が付いた眉庇付冑(まびさしつきかぶと)があった。 

 1993年3月、京都国立博物館 倭国展 資料より 


日本最古のくさり

 鉄鐸(さなぎ)
 信濃国一の宮として全国に1万余の御分社をもつ諏訪大社は、諏訪湖を隔てて南北に
上社、下社があります。 上社は本宮と前宮に、下社は春宮と秋宮に別れており、これ
ら4社を合わせて諏訪大社と言います。 上社の祭神は建御名方命(たけみなかたのみこ
と)、下社はその妻の八坂刀売命(やさかとめのみこと)で、 武神・農耕神・狩猟神
・風神として武田信玄など武将の信仰も集めました。社殿は四方を御柱(おんばしら)
に囲まれ、 その内部に東西宝殿、幣殿、拝殿などが配置された諏訪造。上社にはその
背後に神体山(しんたいざん)が、 下社には神木が立つ。建御名方命は出雲神話の国
譲り伝説に登場し、破れて信濃に逃げてきた神です。

 ここには『湛(たたえ)神事』と言われる、古くから行われている行事があります。

その儀式に使われる高鉾に付けられた鉄鐸(さなぎ)は銅鐸の原型と目され、弥生時代
から使われていたのかも知れません。

 鉄鐸は鍛鉄で作られ高さ約18cm厚さ1.7㎜程度です。鐸の中にぶらさげられた舌(ぜ
つ)は8角形の断面を持っています。 鈴のような綺麗な音ではなく、ガシャンガシャン
という鉄管の触れ合う音で決して荘厳な音ではなかった、と著者は記しています。

 かんぬきに留められた吊り環は舌をぶらさげ、上はひもで鉾につながれた3ケつなぎ
のリンクです。 番号3は溶接なしのリンクですが4は上下のリンクが鍛接リンクのよ
うです。又、6は3リンクとも鍛接されています。 この鉄鐸とリンクが同じ時期のも
のとすれば日本最古、弥生時代の鎖です。 もちろん、傷みによって何度か修理もされ
ているようですが。

参考図書  銅鐸  藤森栄一  学生社  1964年

たたら製鉄 用語集

 ケラと読みます

 ☆ タタラ(高殿)
     タタラとは野鈩(のたたら、露天精錬)の頃は精錬炉をいい、近世に、屋内精錬
に
    移行すると、建物をタタラ(高殿)といい、つぎに付属設備を含めたものをタタラ
(
    鈩)または、タタラ場と呼ぶようになった。
     タタラとはタタール人(ダッタン人)の技法が中央アジアから朝鮮半島を経て日
本
    に伝わったものともいう。また古来日本でフイゴをタタラといっていたが、のちに
製
    鉄炉をさすようになったともいわれる。
    
☆ 天秤フイゴ
     フイゴはタタラ製鉄を行う時に炉内に空気を送り火力をあげるための装置。
     天秤フイゴは出雲では元禄4年(1691)、石見(島根県)では享保年間(1
7
    00年頃)から使用したといわれる。和鋼博物館に展示のフイゴは明治24年製で
、
    石見の若杉タタラで使用していた一人踏みのヤグラ天秤ではある。交代ではあるが
、
    三昼夜の送風は過酷な労働であった。
    
☆ ケラ
     タタラの炉(釜)底にできた鉄塊で炉をこわして引き出す。
    重量は2.5~3.5t。鋼、鉄、銑などが含まれている。
    
☆ 玉鋼(たまはがね)
     ケラは冷却した後、細かく破砕し、玉鋼その他に分ける。玉鋼一級品は純度が極
めて
    高く、最上の日本刀材料で、50年経過しても美しい金属的な光を発している。玉
鋼
    のほかに目白、砂味(じゃみ)、ケラ銑(けらづく)があって、日本刀以外の用途
に使
    用した。
    
☆ 銑(ずく)
     ケラには鋼のほかに流し銑(ずく)とかケラ銑(けらずく)とができる。流し
    銑は製鉄炉(釜)の湯地口から流れ出たもの。ケラ銑はケラを破砕した時に出る銑
であっ
    て、いずれも鋳物の材料とか、包丁鉄の原料に使用した。炭素1.7%以下のもの
。
    
☆ 包丁鉄(ほうちょうてつ)錬鉄(れんてつ)
     銑(ずく)や歩ケラ(ぶけら)(玉鋼と銑の中間の炭素量)を大鍛冶場の火窪(
ほど
    )で脱炭し鍛冶して作ったもの。“割り鉄”とも“延べ鉄”ともいい、低炭素の錬
鉄
    で、刀工はこれを刀の心鉄にするが、一般的には日用刃物・釘その他の柔らかい鉄
材
    料に使用した。


☆ 砂鉄(タタラ製鉄の原料)  砂鉄は採取の場所により山砂鉄、川砂鉄、浜砂鉄と
呼ぶ。また   中国地方の山砂鉄は真砂(まさ)と赤目(あこめ)に分かれる。   
玉鋼を造るケラ押法(けらおしほう)には純度の高い真砂砂鉄を用い、   銑押法(
ずくおしほう)(鋳物及び、包丁鉄の原料になる銑鉄を   つくる)では赤目砂鉄を
用いた。 ☆ 木炭(砂鉄還元に使用)  タタラ吹きに使用する木炭は主に「なら」「
まき」「ぶな」    「くぬぎ」でその他に用いた雑木、地方によっては、    松
、栗を用いた。錬鉄をつくる大鍛冶場では主に松炭を用いた。 ☆ 釜土(粘土)  築
炉用の粘土は苦心して選んだ。花崗岩の風化したもので珪酸   (SiO2 )が適量
で適度な耐火性と鉱滓を造る性質をもつことが    必要で、また、不純物も少ない
ことが条件であった。 和鋼博物館 資料による



たたら考


 小林家に伝わる製鉄図 部分
 たたら考

 『たたら』という発音が、製鉄というプロセスにあてはめられたのは、まさに奇妙で
す。たたらは 鑪・鈩・蹈鞴・踏鞴・高殿、など色々な文字で表されます。
 元々、踏みふいごのことか?平安時代(934年)の百科辞典、『和名類聚抄』には踏
みふいごの事と書かれています。 江戸時代になって永代たたらが生まれその工場を高
殿と書き、たたらと呼ばれました。

 たたらの語源

 中央アジアの民族タタール人が持っていふいた『皮袋』が、製鉄作業の送風器具(吹
子)に使われたところから、 『たたら』と名付けられたとも、インド地方の言語『タ
タール=猛火の意味』から転化したとも言われます。 図は岩手県の小林家に伝わる製
鉄絵図の皮吹子です。 


 たたらを踏む

 歌舞伎や芝居の『たたらを踏む』という動作は、製鉄の時に風を送る『吹子』を脚で
踏む動作と よく似ているところから、名付けられたという。
 ちなみに、先年大勢の人が見たアニメ『もののけ姫』にも主人公アシタカが踏みふい
ごを踏む場面がでてきました。

 野たたら

 古代の製鉄場所。製鉄に必要な風を得るため、風当たりの強い小高い丘の斜面に、く
ぼみを造り(火窪、ほと)、 これに砂鉄と木炭を入れ、竹製の管で送風して溶解還元
させ、鉄を炉底に集める原始的なやり方。


たたら考 2


 吉田村 菅谷高殿
 永代たたら

 製鉄は山定の場所に高殿(たたら)という製鉄工場を建て、ここに炉を築いて、計画
的に 生産されるようになる。これを永代たたらという。図は島根県仁多郡吉田村の菅
谷高殿です。

 たたら製鉄

 たたら製鉄は、三昼夜もしくは四昼夜の日程をもって、一回の製鉄を完了する。 こ
の三~四昼夜を『一代』(ひとよ)という。これを一年間に″六十代″繰り返す。 大
体年間に180トン程度の生産能力であったらしい。

日本語大辞典(講談社)には以下の説明がありました。

 たたら  (蹈・鞴・踏鞴)

 足踏み式の大型鞴(ふいご)

たたらの操業風景 横田町
 たたら・ぶき(蹈・鞴吹き)

 日本古来の製鉄法。砂鉄と木炭を交互に方形の炉へ入れ、鞴(ふいご)で風を送り、
 木炭を燃暁させて砂鉄を還元。ケラ押炉で和鋼を、銑押炉で和銑(わずく)を製造。 
写真は日刀保たたらで操業中の木原村下(むらげ)

 たたらづくり
 陶器製造において、粘土のかたまりの左右にたたら棒という板を置き、糸を使って粘
土を スライスする方法を言います。皿などを製作する時に使う方法です。
 たたら製鉄法においては粘土を大きなサイコロ状にしたものを積み上げ、元釜・中釜
と作ります。 このとき独特の定規を使って炉の寸法を決めてゆきます。陶器製造と製
鉄は共に高温を制御する ことにより可能になるので、『陶・鉄、同根』などといわれ
ます。どこかに共通点がありそうです。
 参考図書

  タイムトラベル横田  横田町ふるさと町民会議  1989年
  金属の百科事典    丸善(株)        1999年
  日本語大辞典     講談社          1989年

比良の鉄生産メモ志賀町史第1巻より

比良の鉄生産メモ志賀町史第1巻より

志賀町史第1巻にその記述がある。
P228
比良山麓の製鉄遺跡は、いずれもが背後の谷間に源を持つ大小の河川の
岸に近接してい営まれている。比良の山麓部の谷間から緩傾斜地にでた
河川が扇状地の扇頂に平坦部をつくるが、多くの遺跡はその頂部か斜面
もしくは近接地を選んでいる。、、、、、
各遺跡での炉の数は、鉄滓の分布状態から見て一基のみの築造を原則
とするものと思われる。谷筋の樹木の伐採による炭の生産も、炉操業
にとまなう不可欠な作業である。この山林伐採が自然環境に及ぼす
影響は、下流の扇状地面で生業を営む人々にとっては深刻な問題であって
そのためか、一谷間、一河川での操業は一基のみを原則とし、二基ないし
それ以上に及ぶ同時操業は基本的になされなかったものと思われる。
各遺跡間の距離が五〇〇メートルから七五〇メートル前後とかなり画一的
で、空白地帯を挟む遺跡も1から1.5キロの間隔を保っていることから、
あるいはその数値から見て未発見の炉がその間に一つづつ埋没している
のではないかと思わせるほどである。、、、、
本町域には現在一二か所の製鉄遺跡が確認されている。いずれの遺跡も、
現地には、精錬時に不用物として排出された「金糞」と呼ばれる鉄滓
が多量に堆積している。なかにはこの鉄滓に混じって、赤く焼けたスサまじり
の粘土からなる炉壁片や木炭片なども認められ、その堆積が小さなマウンド
のようにもりあがっているものさえある。
本町域の製鉄原料は砂跌ではなく、岩鉄(鉄鉱石)であったように思われる。

また、木之本町の古橋遺跡などの遺跡から想定すると製鉄の操業年代は、
六世紀末と思われる。
続日本記には、「近江国司をして有勢の家、専ら鉄穴を貪り貧賤の民の採り
用い得ぬことをきんだんせしむ」(天平一四年七四三年十二月十七日)とある。
また日本書紀の「水碓を造りて鉄を治す」(670年)も近江に関する
製鉄関連史料と見ることも出来るので、七世紀から八世紀にかけては
近江の製鉄操業の最盛期であったのであろう。
本町域にはすくなくとも二十基以上の炉があっておかしくない。
是には一集団かあるいは適宜複数集団に分かれた少数の集団が操業していた。
さらに近江地域では、本町域他でも十個ほどの製鉄遺跡群が七,八世紀には
操業していたようである。詳細は二四二ページにある。

さらに、本町域の比良山麓製鉄遺跡群を構成する多くの遺跡の共通する大きな特徴の
一つは、そのなかに木瓜原型の遺跡を含まないことである。木瓜原遺跡では
一つの谷筋に一基の精錬炉だけではなく、大鍛冶場や小鍛冶場を備え、製錬から
精錬へ、さらには鉄器素材もしくは鉄器生産まで、いわば鉄鉱石から鉄器が
作られるまでのおおよそ全工程が処理されていた。しかし、この一遺跡
単一炉分散分布型地域では、大鍛冶、小鍛冶に不可欠なたたら精錬のための
送風口であるふいごの羽口が出土しないことが多い。本町域でもその採集は
ない。山麓山間部での製錬の後、得られた製品である鉄の塊は手軽に運び
出せるように適度の大きさに割られ、集落内の鍛冶工房で、脱炭、鉄器生産
の作業がなされる。小野の石神古墳群三号墳の鉄滓もそのような工程で
出来たものである。しかし、この古墳時代には、粉砕されないままで、河内や
大和に運ばれ、そこで脱炭、鉄器生産がなされるといった流通形態をとる
場合も多くあった。、、、、

近江の鉄生産がヤマト王権の勢力の基盤を支えていた時期があったと思われる。
このような鉄生産を近江で支配していた豪族には、湖西北部の角つの氏、湖北
北部の物部氏、湖南の小槻氏などが推定されるが、比良山麓では和邇氏同族として
多くの支族に分岐しつつも擬制的な同族関係を形成していた和邇部氏が有力な
氏族として推定される。また、ヤマト王権の存立基盤として不可欠であった
鉄生産を拡大しつつ、新しい資源の他地域、他豪族に先駆けての発見、開発は
和邇氏同族にとっての重要な任務であった。早い時期に中国山脈の兵庫県千穂
川上流域にまでかかわっていたらしく、「日本書紀」「播磨国風土記」の記載
を合わせよむと次のように要約できる。播磨国狭夜郡仲川里にその昔、丸部具
そなふというものがおり、この人がかって所持していた粟田の穴合あなから開墾中に
剣が掘り起こされたが、その刃はさびておらず、鍛人を招き、刃を焼き入れしようと
したところ、蛇のように伸びちじみしたので、怪しんで朝廷に献上したという。
どうやら和邇氏同族である栗田氏がかって、砂鉄採取が隆盛を迎える以前の段階に、
この地で鉄穴による鉄鉱石の採掘、そして製錬を行っていたが、後に吉備の
分氏に、おそらく砂鉄による新しい操業方法で駆逐され、衰退していき、その後
かっての栗田氏が鉄穴でまつっていた神剣が偶然にも掘り出されたことに、
この御宅に安置された刀の由来があると考えられる。
このことから、千種川上流域での初期製鉄操業時には和邇氏同族の関与があり、
鉄鉱石で製錬がなされていたことが推測されるが、おそらくヤマト王権の
支配下での鉄支配であったと思われる。これらの地域で製造されたけら(鉄塊)
もまた大和、河内に鉄器の原料として運び込まれたものと推定される。
出雲の製鉄でもその工人は千種から移り住んだものとの伝承もある。
近江の製鉄集団が千種、出雲の工人集団の祖であるといった観念が存在
していたのであろうか。
本町域の鉄資源もまた少なくとも二か所からあるいは二系統の岩脈から
催行していたことがうかがわれる。

鉄の歴史メモ1

鉄の歴史メモ1

日本における鉄の歴史 ①日立金属のHPより

この頃、「鉄」が気になってしかたがない。
今回は
日立金属のページから
http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp020101.htm
引用ばかりですが、先ずひととおり、お勉強しよう。

稲作と鉄の伝来
●鉄の使用の始まり
現在のところ、我が国で見つかった最も古い鉄器は、縄文時代晩期、つまり紀元前3~4世紀のもので、福岡県糸島郡二丈町の石崎曲り田遺跡の住居址から出土した板状鉄斧(鍛造品)の頭部です。鉄器が稲作農耕の始まった時期から石器と共用されていたことは、稲作と鉄が大陸からほぼ同時に伝来したことを暗示するものではないでしょうか。

石崎曲り田遺跡から出土した板状鉄斧
(出典:「弥生の鉄文化とその世界」北九州市立考古博物館)
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弥生時代前期(紀元前2~3世紀)から次第に水田開発が活発となり、前期後半には平野部は飽和状態に達して高地に集落が形成されるようになります。
さらに土地を巡る闘争が激しくなり、周りに濠を回らした環濠集落が高台に築かれます。京都府の丹後半島にある扇谷遺跡では幅最大6m、深さ4.2m、長さ850mに及ぶ二重V字溝が作られていますが、そこから鉄斧や鍛冶滓が見つかっています。弥生時代前期後半の綾羅木遺跡(下関市)では、板状鉄斧、ノミ、やりがんな、加工前の素材などが発見されています。しかし、この頃はまだ武器、農具とも石器が主体です。
◎水田開発で人口が増え、おまけに海のかなたからやってくる人々で満員になっちゃったんだね。だから新しい土地を求めて日本各地に散らばっていったのか。神武もその中の一派だったんでしょうね。東北あたりは又別のルートで日本列島に来たみたいだけど、、、。
朝鮮半島との交流
弥生時代中期(紀元前1世紀~紀元1世紀)になると青銅器が国産されるようになり、首長の権力も大きくなって北部九州には鏡、剣、玉の3点セットの副葬が盛んになります。朝鮮半島南部との交易も盛んで、大陸からの青銅器や土器のほかに、鉄器の交易が行われたことが釜山近郊の金海貝塚の出土品から伺われます。

弥生時代中期中頃(紀元前後)になると鉄器は急速に普及します。それによって、稲作の生産性が上がり、低湿地の灌漑や排水が行われ、各地に国が芽生えます。
後漢の班固(ad32~92)の撰になる『前漢書』に「それ楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国となる。歳時を以て来り献じ見ゆと云う」との記事がありますが、当時倭人が半島の楽浪郡(前漢の植民地)を通じて中国との交流もやっていたことが分かります。実際、弥生中期の九州北部の墓から楽浪系の遺物(鏡、銭貨、鉄剣、鉄刀、刀子、銅製品など)が多数出土しています。
この中に有樋式鉄戈(てっか)がありますが、調査の結果によると鋳造品で、しかも炭素量が低いので鋳鉄脱炭鋼でないかと推定されています。

◎専門的になりすぎて分かりにくいのでこのままながします。

福岡県春日市の門田遺跡から出土した有樋式鉄戈(てっか)
(出典:「弥生の鉄文化とその世界」北九州市立考古博物館)
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●鉄の加工の始まり

鍛冶工房
ここでいう鉄の加工とは、後世まで引き継がれる鉄の鍛冶加工のことです。鉄器の製作を示す弥生時代の鍛冶工房はかなりの数(十数カ所)発見されています。中には縄文時代晩期の遺物を含む炉のような遺構で鉄滓が発見された例(長崎県小原下遺跡)もあります。 弥生時代中期中頃の福岡県春日市の赤井手遺跡は鉄器未製品を伴う鍛冶工房で、これらの鉄片の中に加熱により一部熔融した形跡の認められるものもあり、かなりの高温が得られていたことが分かります。
赤井手遺跡で見つかった鉄素材片
(出典:「弥生の鉄文化とその世界」北九州市立考古博物館)
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発掘例を見ると、鉄の加工は弥生時代中期(紀元前後)に始まったと見てまず間違いないでしょう。しかし、本当にしっかりした鍛冶遺跡はないのです。例えば、炉のほかに吹子、鉄片、鉄滓、鍛冶道具のそろった遺跡はありません。また、鉄滓の調査結果によれば、ほとんどが鉄鉱石を原料とする鍛冶滓と判断されています。鉄製鍛冶工具が現れるのは古墳時代中期(5世紀)になってからです。

鉄器の普及この弥生時代中期中葉から後半(1世紀)にかけては、北部九州では鉄器が普及し、石器が消滅する時期です。ただし、鉄器の普及については地域差が大きく、全国的に見れば、弥生時代後期後半(3世紀)に鉄器への転換がほぼ完了することになります。

さて、このような多量の鉄器を作るには多量の鉄素材が必要です。製鉄がまだ行われていないとすれば、大陸から輸入しなければなりません。『魏志』東夷伝弁辰条に「国、鉄を出す。韓、ワイ(さんずいに歳)、倭みな従ってこれを取る。諸市買うにみな鉄を用い、中国の銭を用いるが如し」とありますから、鉄を朝鮮半島から輸入していたことは確かでしょう。
では、どんな形で輸入していたのでしょうか?
鉄鉱石、ケラのような還元鉄の塊、銑鉄魂、鍛造鉄片、鉄テイ(かねへんに廷、長方形の鉄板状のもので加工素材や貨幣として用いられた)などが考えられますが、まだよく分かっていません。
日本では弥生時代中期ないし後期には鍛冶は行っていますので、その鉄原料としては、恐らくケラ(素鉄塊)か、鉄テイの形で輸入したものでしょう。銑鉄の脱炭技術(ズク卸)は後世になると思われます。

●製鉄の始まり
日本で製鉄(鉄を製錬すること)が始まったのはいつからでしょうか?

弥生時代に製鉄はなかった?
弥生時代の確実な製鉄遺跡が発見されていないので、弥生時代に製鉄はなかったというのが現在の定説です。
今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れますが(広島県カナクロ谷遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ますと、5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当と思われます。
古代製鉄所跡の発掘現場(6世紀後半の遠所遺跡群)
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弥生時代に製鉄はあった?
一方で、弥生時代に製鉄はあったとする根強い意見もあります。それは、製鉄炉の発見はないものの、次のような考古学的背景を重視するからです。
1)弥生時代中期以降急速に石器は姿を消し、鉄器が全国に普及する。
2)ドイツ、イギリスなど外国では鉄器の使用と製鉄は同時期である。
3)弥生時代にガラス製作技術があり、1400~1500℃の高温度が得られていた。
4)弥生時代後期(2~3世紀)には大型銅鐸が鋳造され、東アジアで屈指の優れた冶金技術をもっていた。


最近発掘された広島県三原市の小丸遺跡は3世紀、すなわち弥生時代後期の製鉄遺跡ではないかとマスコミに騒がれました。そのほかにも広島県の京野遺跡(千代田町)、西本6号遺跡(東広島市)など弥生時代から古墳時代にかけての製鉄址ではないかといわれるものも発掘されています。

弥生時代末期の鉄器の普及と、その供給源の間の不合理な時間的ギャップを説明するため、当時すべての鉄原料は朝鮮半島に依存していたという説が今までは主流でした。しかし、これらの遺跡の発見により、いよいよ新しい古代製鉄のページが開かれるかもしれませんね。
島根県今佐屋山遺跡の製鉄炉近くで見つかった鉄滓(和鋼博物館)
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*鉄滓は鉄を製錬した時の不純物。


◎「ひもろぎ逍遥」に葦の根に鉄バクテリアが集まってできる「スズ鉄・古代鉄」について書いてあります。
http://lunabura.exblog.jp/i30

とてもエクサイティングな内容です。本当に古い昔から、鉄をみつけていたのですね。
「スズ鉄」は日本各地にその痕跡があります。でもやっぱり、採れるのは少量だったようです。

●6世紀頃に画期を迎えた製鉄技術
いずれにしても、我が国における製鉄技術は、6世紀頃に画期を迎えたことは確かでしょう。それ以前に弥生製鉄法があったとしても、恐らく小型の炉を用い、少量の還元鉄を得て、主に鍛冶で錬鉄に鍛えるというような、原始的で、非常に小規模なものだったと思われます。この6世紀の画期は朝鮮半島からの渡来工人の技術によってもたらされたものでしょう。

古事記によれば応神天皇の御代に百済(くだら)より韓鍛冶(からかぬち)卓素が来朝したとあり、また、敏達天皇12年(583年)、新羅(しらぎ)より優れた鍛冶工を招聘し、刃金の鍛冶技術の伝授を受けたと記されています。

その技術内容は不明ですが、恐らく鉄鉱石を原料とする箱型炉による製鉄法ではなかったでしょうか。この中には新しい吹子技術や銑鉄を脱炭し、鍛冶する大鍛冶的技術も含まれていたかもしれません。
この官制の製鉄法は、大和朝廷の中枢を形成する大和、吉備に伝えられ、鉄鉱石による製鉄を古代の一時期盛行させたのではないでしょうか。
一方、出雲を中心とする砂鉄製錬の系譜があります。
これがいつ、どこから伝えられたか分かりませんが、恐らく6世紀の技術革新の時代以前からあったのでしょう。やがて、伝来した技術のうち箱型炉製鉄法を取り入れて、古来の砂鉄製鉄と折衷した古代たたら製鉄法が生まれたのではないでしょうか。
古代製鉄の謎は、我が国古代史の謎と同じようにまだ深い霧に包まれています。

●古代のたたら
砂鉄か、鉄鉱石か
近世たたら製鉄では鉄原料として、もっぱら砂鉄を用いていますが、古代では鉄鉱石を用いている例が多いようです。
次の図は中国地方における古代から中世にかけての製鉄遺跡の分布とその使用鉄原料を示したものですが、鉄鉱石を使っているのは古代の山陽側(とくに備前、備中、備後)と、ここには示していませんが、琵琶湖周辺に限られているようです。山陰側その他は、ほとんど砂鉄を用いています。このことは製鉄技術の伝来ルートに違いがあることを暗示しているのかもしれません。
古代~中世の製鉄遺跡における使用鉄原料
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炉の形状
炉の形状は古墳時代の段階では円形、楕円形、方形、長方形と多様です。古代(8~9世紀)になると長方形箱型炉に次第に統一されていきます。
一方、東国では8世紀初頭より半地下式竪型炉が現れ、9世紀には日本海沿岸地域にも広まって、東日本を代表する製鉄炉となっていき、10世紀には九州にも拡散が認められます。この竪型炉は各地での自給的生産を担っていましたが、中世には衰微します。このような西日本と東日本の炉形の違いはなぜ生じたのでしょうか?東と西で製鉄のルーツが違うのでしょうか?まだまだ分からないことが多いのです。

各種古代製鉄炉の分布
出典:古代の製鉄遺跡(製鉄と鍛冶シンポジウム、於広島大学)土佐雅彦、1995、12月
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中世のたたら
中国山地への集中と炉の大型化
中世になると鉄の生産は、主に中国地方、特に近世たたら製鉄の発達した中国山地に集中するようになります。鉄原料はほとんど砂鉄です。

11世紀から13世紀にかけて広島県大矢遺跡など見られるように炉の大型化、地下構造の発達などの画期を迎えます。長方形箱型炉の炉床は舟底形となり、炉体も長さ2m、幅1m程度と近世たたらの規模に近づいてきます。14世紀後半から15世紀に入ると、広島県の石神遺跡や島根県の下稲迫遺跡(しもいなさこいせき)のように本床、小舟状遺構を持ち、近世たたらに極めて近い炉形、地下構造となります。
時代が下るにつれて大型化する傾向が分かります。


メソポタミア地方で発

日本の金属の歴史
見された、これらの金属材料 と加工技術は、ヨーロッパ、アジアなどに広がり、日本へは紀元前200年頃(弥生時代初期)中国、朝鮮を経由して入ってきました。

弥生時代

日本に金属製品生産技術が定着していく過程について、次のように推察されています。
①金属製品の使用段階・・外国より製品輸入
②金属製品の制作段階・・金属原料を輸入し加工 

③金属原料の生産段階・・たたら等による精錬
このように、最初は鉄製の鍛造品や青銅器製品として入ってきましたが、やがて朝鮮半島から技術者集団が移住して鋳造品や鍛造品を生産したと推測されています。
日本の鋳物作りの最初は中国大陸から渡来した銅製品の模倣から始まり、その後銅鐸や腕輪、飾りの鋲など日本独特の製品が作られました。
銅製品については、主に装飾品や祭器などに使われ、実用品としては鉄で作

鉄の歴史メモ2

鉄の歴史メモ2

日本の金属の歴史

メソポタミア地方で発
見された、これらの金属材料 と加工技術は、ヨーロッパ、アジアなどに広がり、日本へは紀元前200年頃(弥生時代初期)中国、朝鮮を経由して入ってきました。

弥生時代

日本に金属製品生産技術が定着していく過程について、次のように推察されています。
①金属製品の使用段階・・外国より製品輸入
②金属製品の制作段階・・金属原料を輸入し加工 

③金属原料の生産段階・・たたら等による精錬
このように、最初は鉄製の鍛造品や青銅器製品として入ってきましたが、やがて朝鮮半島から技術者集団が移住して鋳造品や鍛造品を生産したと推測されています。
日本の鋳物作りの最初は中国大陸から渡来した銅製品の模倣から始まり、その後銅鐸や腕輪、飾りの鋲など日本独特の製品が作られました。
銅製品については、主に装飾品や祭器などに使われ、実用品としては鉄で作るなどの使い分けも行われたようです。
流し込む鋳型として、最初は削りやすい砂岩などに製品の型を彫り、その窪みに流し込む開放型から始まり、次に2枚の型を合わせ、その隙間に流し込む合わせ型にするなど、石型から始まっています。
やがて、中国渡来の鏡の模様を真似ようと、平らにした粘土に鏡を押しつけて型をとり、これに溶湯を流し込むなど、石型より形が作りやすい土型に発展しています。
更に、現代のロストワックス法と同様に蝋で製品の形を作り、これを粘土質の土で塗り固め、焼いて蝋を流しだし、出来た隙間に溶湯を流し込むなど複雑な形状の製品も出来るようになります。
近年よく話題になります銅鐸についても、このような石型から始まり、土型に代わっています。
この銅鐸はこの時代を代表した優れた鋳造品といえますが、何に使用されたのか判っていません。
多分、祭祀などに使われたと考えられますが、次の古墳時代になると、生産が途絶えています。

初期の石の鋳型合わせ型土型
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古墳時代 

古墳時代(西暦300~600年)の遺跡から鉄製 の刀や斧などが出土していますが、その中の斧の分析結果から炭素や珪素を含んだ鋳鉄製であることが判明し、日本で作られた最も初期の鉄鋳物であると推定されています。又、この時代は大陸から原料の地金を輸入し、溶解鋳造していたようです。
鉱石からの精錬については、福岡の太宰府で1600年前の製鉄炉跡が発掘されています。これは山の斜面に穴を掘り、底に木炭の粉と石英を練り合わせたものを詰め、その上に木炭と砂鉄を積み重ね、土を被せて点火し、自然通風で精錬したものと推定されています。この炉は弥生後期から古墳時代の製鉄跡と考えられています。 又、この時代は大和朝廷が全国の権力基盤を強化し た時期であり、日本の鉄の歴史に重要な時期であったと考えられています。
それは全国各地に同じような古墳が数多く建設されたこと、又、同じような古墳が出土していること、更に、鉄製武器などの副葬品が増加していることから伺えます。 応神陵古墳や、仁徳陵古墳のように巨大な古墳などの土木工事ができた最大の背景は「鉄」であったと考えられています。
尚、このような鉄資材は朝鮮から輸入されたとする意見と、吉備、出雲から運ばれたという意見に別れているようです。 古墳後期になると、日本書紀や古今和歌集などの記事から、鉄生産時の送風技術が、これまでの自然通風から人工的な送風に進歩しています。

1600年前の福岡太宰府製鉄炉跡古墳と出土した鉄器
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奈良、平安時代 

平安時代における鋳物生産の中心は河内の丹南で、その後、全国各地に広がっていったようです。   銅鋳物について、この時代は宗教に関連した鋳物である鐘楼、灯籠、奈良の大仏など大型の鋳物が数多く作られています。
しかし、鉱石からの鉄の精錬については、ハッキリとはしておりません。製鉄跡としては岡山県の福本たたら、石生天皇たたら、更に群馬県の沢製鉄遺跡などがあり、自然通風や吹子を使う型などいろいろあったようです。この「たたら」と言う方は江戸時代になってからですが、「たたら製鉄」とは砂鉄と木炭を原料として鉄を作る技術であり、この時代がたたらの誕生期であったろうと考えられています。
鉄鋳物については、鍋、釜などの日用品、更に、鋤、鍬などの農耕具などが作られるようになりました。
日本各地への鋳物業伝播
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鎌倉~安土桃山時代

群馬県では平安~鎌倉初期の金井製鉄遺跡が発掘されており、山の斜面を利用した大規模なものです。発掘品の分析結果から炭素や珪素を含んだ銑鉄状のものが生産されていたことが判り、かなり高温の精錬が行われるようになったと推定されます。
これまでの製鉄炉は地面を掘りかためた平炉でしたが、鎌倉中期になると出雲国飯石郡菅谷鉱山において、初めて粘土を積み上げた製鉄炉が築造され、これが室町時代に中国地方一帯に普及しました。
このような製鉄技術の進歩によって、鉄鋳物製品はそれまで僧侶や富豪などしか所持できなかったものが、鎌倉期に入ると庶民まで所持できるようになりました。
室町時代には芸術品としても価値のある茶の湯の釜が作られ、数々の名品が後世に残されています。
銅鋳物についてみますと、鎌倉の大仏さまがあります。500年前の奈良の大仏さまの制作に比べ数々の技術的な進歩がみられます。 先ず第1に奈良大仏は中国大陸の技術を取り入れて作られましたが、鎌倉大仏は我が国の鋳造技術を結集して作られたこと、
第2に模型として石と土で台座を築き、その上に木の柱を何本も立てて縄を巻き付け土を塗り土像を作りましたが、鎌倉大仏は木造の大仏を作り(現代の木型)、それを木型として鋳造しています。
第3にどちらも8回に分けて鋳造していますが、その接続方法に鎌倉大仏では「いがらくり法」という、鉤状の頑丈な方法を用いています。

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江戸時代

鉄鋳物の生産については、原料の鉄を生産する たたら吹き製鉄技術の進歩が欠かすことが出来ません。
江戸時代はこのたたら製鉄の完成期といわれています。たたら製鉄の発展は如何に高温を得るかの技術にかかっており、そのためには送風技術の発達が重要となります。江戸時代中期に「天秤ふいご」が出現したことがその転機となっています。
当時の鉄産地としては但馬、因幡、出雲、備中、備後、日向及び仙台などがあげられています。
又、鋳造業の栄えた地域としては、

盛岡、水沢、仙台、山形、新潟、佐野、高崎、川口、 甲府、上田、松本、高岡、金沢、福井、小浜、岐阜、 豊川、岡崎、西尾、碧南、名古屋、桑名、彦根、 京都、三原、広島、高松、高知、柳井、佐賀、
などが上げられます。
幕末になると黒船到来など諸外国などの脅威を受け、国防のため大砲の鋳造や軍艦の建造などが必要となります。
大砲の鋳造ではこれまでの溶解炉「こしき炉」では能力不足であり、大型の反射炉が各藩で争って築造されました。
最初に作ったのは佐賀藩で、続いて薩摩、水戸、江戸などで築造されました。
又、原料の鉄についても「たたら炉」では能力不足となり、釜石に洋式高炉が10基ほど建設され、銑鉄の供給は急速に増大しました。
軍艦の建造には機械部品としての鋳物の製造技術が外国から導入されることになり、コークスを原料とする洋式のキュポラが持ち込まれ、蒸気動力による送風機を使った近代的な鋳物工場が誕生することになります。

たたらの構造こしき炉

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「参考文献」
鋳物五千年の歴史(日本鋳物工業新聞社)/たたら(玉川大学出版部)/鉄のメルヘン(アグネ)
鋳物の技術史(社団法人 日本鋳造工学会)/ 鋳物の実際知識 (綜合鋳物センター)


鉄を制する者が天下を制する。」
歴史の鉄則としてよく言われる事ですが、古代日本の権力闘争の歴史を読み解く上でも鉄の流れを押さえておく事は重要です。今回は中国大陸―朝鮮半島―日本列島における鉄の流れを押さえておきたいと思います。
まずは最初に弥生時代~古墳時代の列島の鉄の分布を見ておきます。
 グラフで概観を捉えてみてください。
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下記グラフを見ても弥生時代から古墳前期に北九州が列島において圧倒的に鉄の先進地域だったことがわかります。
画像の確認
 この鉄がどのように半島で広まり、列島に入ってきたか?
るいネットに鉄関係の投稿をしてきましたのでダイジェストで紹介していきます。
FarEast_3c01.jpg
 まずは中国での製鉄の歴史を押さえておきます。
 中国の鉄の歴史は東から伝わった製鉄の技術にそれまでの製銅の歴史を応用して紀元前10世紀に始まる。紀元前4世紀から6世紀の春秋戦国時代に鉄は各地に広がり、武器や農工具として需要が広まっていく。紀元前2世紀の秦王朝は鉄官という役職を定め、前漢の時代には全国49ヶ所に配置した。1世紀、後漢の時代には既に大量生産を始めており、漢は当時、最も進んだ製鉄大国になっていた。
東アジアの鉄の歴史①~中国の製鉄の起源は紀元前9世紀
東アジアの鉄の歴史②~中国の製鉄の歴史(紀元前1世紀には製法が完成)
 次に朝鮮半島です。
製鉄起源は明確ではない。無文土器時代の中期(前4世紀~)、中国戦国文化と接触し、鋳造鉄器が出現する。その後、鋳造鉄器の製作が始まった。前漢(B.C202年~)の武帝は朝鮮北部に進攻し、楽浪郡など漢四郡を設置した(B.C108年)。
これが契機となって鉄資源の開発が促され、鉄生産が一層進展したと見なされている。
これ等は中国植民地政権の影響が及ぶ朝鮮北部に限定され、且つこの時期から、鉄製品に鍛造品が出現する。
半島北部の資源分布の特性で、鉄鉱石を原料とする間接製鉄法が主であったとされる。半島の高品位な鉄鉱石は黄海道西部から平安道の西北に集中し、東南部と南西部に高品質な砂鉄が分布していた。

朝鮮半島の製鉄の歴史は中国への供給を目的に、紀元前1世紀頃からおそらくは中国の鉄技術が人と共に大量に注入された事と思われる。中心は辰韓(後の新羅)弁韓(伽耶連合)にあり、戦乱に明け暮れた1世紀から3世紀の半島は鉄を巡る争いに終始していたとも言える。
それまで何もなかった南部朝鮮の国力はわずか500年の間に大国中国や高句麗と対抗できるまでに高揚し、ついに8世紀には新羅が半島を統一する。この朝鮮半島の情勢に中国の鉄が絡んでいた事はほぼ間違いなく、最終的に新羅が唐の力を得て半島を統一したのも鉄資源と生産を担う新羅や伽耶の中心地を押さえていたからである。

東アジアの鉄の歴史③~朝鮮半島への鉄の伝播
★朝鮮半島で最も鉄で栄えたのが伽耶をはじめとする金官伽耶である。
鉄器文化を基盤に、3世紀後半から3世紀末頃までに建国された金官加耶をはじめとする加羅諸国は、4世紀にはその最盛期を迎えたと思われる。たとえば、金海大成洞遺跡からは4世紀のものとされる多量の騎乗用の甲冑や馬具が見つかっている。
金官加耶がすでに4世紀には強力な騎馬軍団をもっており、政治的・軍事的色彩の濃い政治組織や社会組織を備えた国家だったことを伺わせる。
金官伽耶は倭国との関係も強く、九州王朝(磐井)を後背部隊として従え、新羅へ深く攻め入る。この時代(3世紀~4世紀)の伽耶地方と九州は伽耶の鉄を介してひとつの国の単位になっていた可能性が高い

伽耶諸国の歴史(2)~鉄と共に栄えた金官伽耶
★大伽耶が押さえた5世紀~6世紀の半島の鉄
金官伽耶の衰退と同時に連合を組んで伽耶地方を押さえたのが大伽耶連合である。
加耶諸国の中心勢力の交替は、倭と加耶との交流にも大きな変化をもたらした。五世紀後半以降、加耶諸国との関係では、金官加耶の比重が大きく低下し、新たに大加耶との交流が始まった。須恵器(陶質土器)、馬具、甲冑などの渡来系文物の系譜は、五世紀前半までは、金海・釜山地域を中心とした加耶南部地域に求められる。この時期、加耶諸国の新しい文物と知識を持って、日本列島に渡来してくる人々が多かった。出身地を安羅とする漢氏(あやうじ)や金海加耶を出身とする秦氏(はたうじ)などは、ヤマト朝廷と関係を持ったため、その代表的な渡来氏族とされている。大伽耶連合も562年には新羅に併合され、ここで伽耶の鉄の歴史は終止符を迎える。
伽耶諸国の歴史(3)~半島内での進軍と衰退
 最後に日本の鉄の状況を押さえておきます。
日本の鉄の歴史は5世紀半から6世紀を境に大きな変化を迎える
それまでの鉄は専ら、半島から鉄素材を輸入し、渡来人の鍛冶技術を注入して畿内、九州中心に鍛冶工房を営み、国内の鉄を調達していた。弥生時代には鍛冶工房は方々にあったが、まとまった製鉄施設は確認されていない。
>今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れるが(広島県カナクロ谷遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ると、5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当であろう
日立金属HP
6世紀に変化をもたらしたのも渡来人集団であろう。
>古事記によれば応神天皇の御代に百済(くだら)より韓鍛冶(からかぬち)卓素が来朝したとあり、また、敏達天皇12年(583年)、新羅(しらぎ)より優れた鍛冶工を招聘し、刃金の鍛冶技術の伝授を受けたと記されている。その技術内容は不明だが、鉄鉱石を原料とする箱型炉による製鉄法ではなかっただろうか。この中には新しい吹子技術や銑鉄を脱炭し、鍛冶する大鍛冶的技術も含まれていたかもしれない。
日立金属HP
日本の鋼資源の特徴は火山地帯に恵まれる為、砂鉄が世界的にも極めて多い地域である。その活用は古くは縄文時代まで遡ると言われているが、6世紀以降に、出雲、関東、東北の海岸線を中心にこの砂鉄の産地を中心にたたら製鉄の技術が確立されてきた
たたら製鉄の獲得によって自前で鉄製品を生産できるようになった日本が、7世紀を境に律令制を組み込み、国家としての自立を成し、朝鮮半島や中国への依存を少なくしていく。
結果的には鉄の自給がその後の日本の独立性を高める事になり、奈良時代以降の中国、朝鮮半島に対しての対等外交のベースになったのではないかと思われる。

鉄の自給が作り出した国家としての基盤
鉄の自給が作り出した国家としての基盤
 
田野健 HP ( 48 設計業 )09/02/19 AM10 【印刷用へ
日本の鉄の歴史は5世紀半から6世紀を境に大きな変化を迎える。

それまでの鉄は専ら、半島から鉄素材を輸入し、渡来人の鍛冶技術を注入して畿内、九州中心に鍛冶工房を営み、国内の鉄を調達していた。弥生時代には鍛冶工房は方々にあったが、製鉄施設は確認されていない。先日淡路島で発見された大規模な垣内遺跡も鉄の2次加工を行う鍛冶工房である。

>今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れるが(広島県カナクロ谷遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ると、5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当であろう。
リンク~日立金属HP)

6世紀に変化をもたらしたのも渡来人集団であろう。
>古事記によれば応神天皇の御代に百済(くだら)より韓鍛冶(からかぬち)卓素が来朝したとあり、また、敏達天皇12年(583年)、新羅(しらぎ)より優れた鍛冶工を招聘し、刃金の鍛冶技術の伝授を受けたと記されている。その技術内容は不明だが、鉄鉱石を原料とする箱型炉による製鉄法ではなかっただろうか。この中には新しい吹子技術や銑鉄を脱炭し、鍛冶する大鍛冶的技術も含まれていたかもしれない。
リンク~日立金属HP)

日本の鋼資源の特徴は火山地帯に恵まれる為、砂鉄が世界的にも極めて多い地域である。その活用は古くは縄文時代まで遡ると言われているが、6世紀以降に、この砂鉄の産地を中心にたたら製鉄の技術が確立されてきた。出雲、関東、東北の海岸線を中心に砂鉄が多く採取できる。(砂鉄の分布リンク
たたら製鉄は砂鉄を用い、低温で鉄を完全溶融せずに製品に加工する手法で小規模から製鉄を行う事ができる。多くの木炭資源を用い、鉄1トンを製造するのに6倍もの木炭を使用する。豊富な木材資源と再生力がある日本列島だから可能になった手法とも言える。たたら製鉄はその後改良を重ね、室町時代には大量生産に移行し、17世紀の江戸時代には大鍛冶技術として完成する。

謎と言われているのが、たたら製鉄の伝来ルートである。朝鮮半島、中国のいずれの鉄生産地にもない製造法であり、日本独自の製鉄技術ではないかという説もある。日本のたたら製鉄に近似した製法はアフリカのマンダラ地方とインド中央部にしか確認できていない。
鉄技術の多くを朝鮮半島から取り入れながら、たたら製鉄の手法そのものは遠くインドまで戻らなければならないことから謎と言われているが、おそらく中国、朝鮮半島のいずれかの鉄職人が当時の技術(直接製鉄法)を応用して発見したのではないかと思われる。

たたら製鉄の獲得によって自前で鉄製品を生産できるようになった日本が、7世紀を境に律令制を組み込み、国家としての自立を成し、朝鮮半島や中国への依存を少なくしていくことは歴史的にも符合している。或いは、563年にそれまで鉄資源を全面的に依存していた任那が新羅に併合されたことで鉄の調達がいよいよ難しくなった事も外圧として国内の統合を加速したのかもしれない。

しかし、結果的には鉄の自給がその後の日本の独立性を高める事になり、奈良時代以降の中国、朝鮮半島に対しての対等外交のベースになったのではないかと思われる。

※課題:たたら製鉄の初期生産力とはいかなるものか?(依存と自給は併存していたのか?)

製鉄の原料には鉄鉱石と砂鉄がありますが、私はてっきりと砂鉄を原料とする製造方法のほうが古いのだと思い込んでいました。

ところが、≪奈良時代以前の製鉄原料は鉄鉱石が主流≫だったのです。
≪奈良時代以前には鉄鉱石を主として、場所によっては砂鉄を使用する状況でしたが、鎌倉時代以降には砂鉄のみを利用して鉄を作るようになりました。≫
日本では、鉄鉱石はすぐに枯渇してしまったようです。

http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/saguru2-11.html

≪古代吉備を探るⅡ 
連載第11回 限りある資源を大切に
文/岡山県古代吉備文化財センター 上栫 武≫
 ≪奈良時代以前の製鉄原料は鉄鉱石が主流で、その豊富な埋蔵量が「まがね吹く 吉備」たらしめたと言えるでしょう。≫
 ≪奈良時代以前には鉄鉱石を主として、場所によっては砂鉄を使用する状況でしたが、鎌倉時代以降には砂鉄のみを利用して鉄を作るようになりました。つまり、文字史料から変化が読み取れた平安時代は、ちょうど原料が鉄鉱石・砂鉄両用から砂鉄のみに一本化する過渡的段階にあたると判断できます。≫
 ≪砂鉄は花崗岩(かこうがん)の風化残留物で、中国山地を中心とする花崗岩地帯で大量に採取できます。「たたら」が中国山地を中心に発展した背景には、砂鉄の豊富な存在があげられます。対して鉄鉱石は産出場所・量が限られるため、枯渇(こかつ)が生産の枷(かせ)となります。713年、備前北半部の花崗岩地帯が美作として分国されました。分国のせいで備前では鉄鉱石が枯渇した時に、代わりの原料となる砂鉄が十分に調達できなくなったと言えます≫

http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp020103.htm
≪弥生時代の確実な製鉄遺跡が発見されていないので、弥生時代に製鉄はなかったというのが現在の定説です。≫
しかし、≪・・・5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当と思われます。≫
≪弥生時代末期の鉄器の普及と、その供給源の間の不合理な時間的ギャップを説明するため、当時すべての鉄原料は朝鮮半島に依存していたという説が今までは主流でした。≫

≪いずれにしても、我が国における製鉄技術は、6世紀頃に画期を迎えたことは確かでしょう。≫
≪この6世紀の画期は朝鮮半島からの渡来工人の技術によってもたらされたものでしょう≫

引用は不充分でしょうが、確認したいことは次のことです。
① 日本では、製鉄は弥生時代後半から始まっていたようだ。
② 鉄原料は朝鮮半島に依存していたようだ。(ただし、日本にも遺跡はあった)
③ 日本では、製鉄の原料は鉄鉱石から砂鉄に移行した。


日本には鉄鉱石はそれほど埋蔵されていないようです。
たとえば、前回問題にした勿禁(ムルクム)の鉄鉱山は、今では採掘は中止されているようですが、最近まで行なわれていたようです。
最初に検索した時に、渡来人の研究をしている方たちの掲示板
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/keijiban13.htm
の、製鉄集団の渡来’(2006年3/6)を目にして「韓国製鉄・鍛冶遺跡探訪の旅」を知りました。
http://kkuramoto.web.infoseek.co.jp/kankoku.kaji.htm

・佳村里製鉄遺跡・・・慶尚南道 梁山・・6世紀・・製鉄遺跡は共通して山の端で平野が開ける小高い丘に立地している。
・凡魚里製鉄遺跡・・・慶尚南道 梁山
・≪勿禁邑鉄鉱山・・・慶尚南道 梁山
洛東江に面していて鉄鉱石は船で搬送されていた。
最近まで採鉱されていたが今は採算が取れず鉄鉱石は止めている、との事だった。≫

梁山(ヤンサン)の製鉄遺跡は6世紀のものだそうですから、勿禁邑鉄鉱山はずいぶんと長いこと稼動していたことになります。それでは余りに長すぎますから、当時の鉄鉱山は別の場所だったかもしれません。
それにしても、鉄鉱山は梁山(ヤンサン)地区にあったのでしょうから、日本の吉備の埋蔵量と比べると、雲泥の差であったことは想像できます。

鉄は当時大変な貴重品で、戦略物資だったようです。
弥生時代末期以降の鉄器の普及は朝鮮半島の鉄鉱石と技術者のおかげかもしれません。
ということは、古代日本にとって南朝鮮が領土の一部ということは、経済生産活動に構造上必要なことであったといえるでしょう。
失うようなことがあれば、大変な打撃となるわけです。
技術者だけを連れてきても、日本では鉄鉱石の埋蔵量が少ないために、すぐに壁に突き当たるはずです。

 白村江の敗戦により、日本は朝鮮の鉄鉱石を原料に使用できなくなり、(あっという間に、わずかな日本の鉄鉱山は枯渇し、交易で鉄鉱石または製品を輸入することはできたにしても)豊富に存在した砂鉄に製鉄の原料を移行せざるを得なくなったのでしょう。
 技術革新は行なわれたのでしょうが、最初は大変だったでしょう。
石油が入らなくなり、石炭に戻ったようなものだったかもしれません。(わかりませんが、多少はそういう状況に近かったのではないでしょうか)
 古事記の神功皇后のところでは、朝鮮・新羅が宝の国とされていました。
宝とは金とか銀とかの貴金属を指しているのかと考えましたから、ずいぶんと大げさな表現だと感じていました。しかし、鉄が宝だったと思えば納得できるのです。

さて、日本列島を揺るがす製鉄技術の導入は、247年の戦争が契機になったと思われます。(5世紀以前に製鉄は始まっていたはずです。大きな技術革新は5,6世紀だとしても)
当時、北九州は卑弥呼と卑弥弓呼の奴国があり、南朝鮮と緊密な関係で、既に製鉄文明を謳歌していたでしょう。(たぶん)
関門海峡はまるで封鎖されたような状況にあり、(実際に封鎖していたというのではありませんが、思いつきでいいますと、難民の流入があってもおかしくはありません。ちょっかいは熊襲だけではなかったかもしれません)瀬戸内以東と北九州の格差は大きかったと考えています。
この247~250年ごろが、日本列島の寒気の底でした。穀物生産も瀬戸内以東では最悪であったでしょう。
この格差是正がこの247年の戦争だったといえるのです。(今から思えば)

(以前に書いていますが、この戦争は、「記・紀」では『神武東征』として書かれていますが、実際の進路は逆で、スサノヲと兄・五瀬命が明石・須磨から北九州・奴国に攻め込んだものです。スサノヲは正面衝突では敗北しますが、奇襲によって、卑弥呼・卑弥弓呼を破ります。
卑弥呼・卑弥弓呼は亡くなり奴国は乱れますが、卑弥弓呼の娘・トヨが卑弥呼になり収まります。しかし、スサノヲは卑弥呼トヨを孕ませ(妊娠させ)たために、御子を産むために卑弥呼トヨは瀬戸内海を渡りスサノヲの元に行こうとします。・・・と同時に列島は温暖化に向かいます。・・以前に書いています。付け加えると、卑弥呼と同時かどうかはわかりませんが、農耕集団、製鉄集団も加わっていたのではないでしょうか)

 スサノヲは、後に半島に行ったものと思います。(以前は行く必要がないと考えていましたが、その必要はあったでしょう)
 どういう形態になったかは、わかりませんが、南朝鮮を押さえたはずです。そうでないと、鉄が日本に流入しないでしょう。
 鉄鉱山、製鉄所、技術者などを支配しようとしたはずです。
 スサノヲが朝鮮に渡っていたなら制圧していたはずです。(支配形態としてはゆるいものだったかもしれませんが)

 大和朝廷の朝鮮半島・任那に対する執着は、鉄に起因するところが大きいのではないか、というのが今回の仮説です。
 まとめると、概要文のようになります。
「古代日本での、製鉄の原料は、鉄鉱石から砂鉄に移ります。日本には鉄鉱石の埋蔵は少量でしたが、砂鉄は豊富にあったからです。
しかし、日本の鉄器文明の最初の契機は、朝鮮半島の鉄鉱石だったようです。
247年の北九州でのスサノヲと卑弥弓呼の戦争と、663年の白村江の戦いは、鉄に対する希求の表れだったと思えます。」

鉄の歴史メモ3

鉄の歴史メモ3

1.製鉄の起源を探る意味:製鉄の起源と日本文明の起源

日本の古代文明の有り様は、謎のままで明らかになっていない。その国の歴史が未だかつて明らかになっていないのは、世界中でも日本だけの特殊な事態である。
 民族の歴史が不明であるという事は、その民族の本当の意味でのアイデンティティが未確立であることを意味している。そのため、その民族は国際社会では確固とした行動をとれないばかりか、国内的には不測の事態に対応できない構造を形作る。
 一般に人類の歴史の発展過程は、多くの場合サイエンスとテクノロジーの発展過程と対応している。私は、「火を使って自然物を加工する」科学技術の獲得をもって、文明の端緒と考えている。
 日本の古代文明は、この火を使って自然物を加工する科学技術を、人類社会で最初に手に入れた文明である。1万6千年前から弥生時代まで、約1万4千年間も作り続けられた縄文式土器がそうである。
 また、日本古代文明の特殊性は、青銅器と鉄器が弥生時代から並立して存在していることである。人類史の中では、鉄器時代は青銅器時代の後にやってくる。なぜなら、これはサイエンスとテクノロジーの発展過程の問題であり、科学技術的には青銅器の後にしか鉄器は存在できなかったからである。
 したがって、日本古代文明の様相を探り、その謎を解き明かすには、本来文明の発展過程に対応しているサイエンスとテクノロジーの傾向を分析する必要に迫られる。
結局、製鉄の起源を探る意味は、製鉄の起源から日本古代文明の起源を解き明かす役割と可能性をいうのである。

2.人類の製鉄の起源の概略:中国の鉄の起源と発展過程

人類社会で製鉄技術を最も早く獲得し見事に実用化したのは、中国の古代文明だと考えられており、現在これが定説となっている。この節では、まず中国の鉄の起源とその発展過程を整理することにより、人類の製鉄の起源の概略を示したい。 
 中国の研究者によると、中国では紀元前14世紀の隕鉄が見つかっており、これはヒッタイトの紀元前12世紀を上回るという。製鉄技術の古さを言わんとしているが、恒常的な製鉄は、紀元前7世紀頃から始まったと考えられている。
古代中国の製鉄は「個体直接還元法」=「塊煉法」が使われた「低温製鉄法」である。この原理は・・・富鉄鋼(赤鉄鋼もしくは磁鉄鉱)と木炭を原料として、椀型の炉に入れて通風し、1000度近くまで熱して、鉄を固体の状態で還元する技術で、職人は、炉の中から、半熔解状態の海綿状の塊をとりだして鍛造し、性質を改善し器に鍛え上げていた。・・・と分析されている。この製法は、中国を除くと14世紀後半まで、世界中で続けられていた普遍的な製鉄技術である。
その後、中国では紀元前5世紀に、銑鉄と可鍛鋳鉄の発明があり、中国が世界で初めて銑鉄を作る技術を獲得した。この作り方は、高い炉を造り、送風の強化によって炉内温度を上げ(1146度C~1380度Cが予測される)原料の鉱石を溶かしたと考えられている。
 紀元前3世紀に個体脱炭鉄(脱炭法の開発)=白銑鉄を酸化させて脱炭し、その後さらに銑鉄版を脱炭し鉄鋼を作り、次に再加熱鋳造し、各種の器物を製作する技術を開発している。
紀元前2世紀に、炒鋼技術が発明された。これは、融化した銑鉄に送風し、1150度~1200度に熱したままでかき混ぜて酸素を送り込んで炭素を取り除く方法である。
紀元後2世紀には、ドロドロに溶かした液体の銑鉄と錬鉄を混ぜ合わせて侵炭して鋼にする技術を発明した。(炭素濃度をコントロールする技術)
 中国は、永い間これらの製鉄技術の国外流出を防いでいたが、製鉄資源の枯渇とともに東南アジアやシルクロードを逆送し、やがてヨーロッパにも伝わっていった。スウェーデンで発見されたヨーロッパで最も古い製鉄炉は、中国の炉の形をしている。
 この概略をさらに暦年的に整理すると以下のようになる。
 ・紀元前5世紀に、銑鉄と可鍛鋳鉄が発明された。
 ・紀元前3世紀に、固体脱炭鋼が発明された。
 ・紀元前2世紀に、炒鋼技術が発明された。
 ・紀元後2世紀頃、製鋼技術が発明された。
 最後の紀元2世紀後の技術が、現在の溶鉱炉による製鉄技術として、世界中に普遍化している。

3.サイエンスとテクノロジーの発展過程:科学的法則性

ここで重要な問題は、これらのサイエンスとテクノロジーの発展過程が、どのような様相の中で起こったかを分析することである。
これらの科学技術の発展過程、いわゆるなぜ中国で最初に銑鉄技術が出来上がったのかという原因について考えられる要因は、以下の要素と順番に整理できる。

①長期にわたる豊富な製陶技術があったこと。
中国では新石器時代から製陶技術が発祥したと考えられている。煙突と煙道が設けられているものは、最大1280度の高温環境を作れたと考えられている。
②青銅鋳造技術が高度に発達していたこと。
紀元前14世紀頃(商・周)時代には、すでに大型の青銅器が作られている。稀少で高価な銅や錫にかわって、安価な鉄を使う技術的基礎が作られた。
③これらを技術的基礎に白銑鉄の発明と鋳鉄のもろさを改良する焼き鈍しの技術を生み出した。銑鉄の広範な使用が始まった結果、白銑鉄、脱炭鋳鉄、可鍛鋳鉄の生産が大量に可能になった。

つまり、鉄器の制作技術の前段には、青銅器の制作技術があり、さらにその前段には陶器の制作技術があったことが分かるのである。これは、サイエンスとテクノロジーの発展過程における科学的法則性に一致する状況で、下位の技術から上位の技術へと、順番に科学が発展していることが系統的に示されている。
前にも述べたが、人類社会全般には、青銅器時代から鉄器時代がやってくるのはこの科学的法則性に基づいている。にもかかわらず、日本の場合だけ弥生時代から青銅器と鉄器が並立していることは、人類社会全般のサイエンスとテクノロジーの発展過程における科学的法則性に反する事態が起こった可能性を示唆している。

4.日本の製鉄起源をどう求めるのか:古代文明の様相を探る

それでは、日本の場合、製鉄起源をどう求めればよいのか。あるいは、製鉄技術の面から、日本の古代文明の発祥の様相をどう分析すればよいのかの問題提起を行いたい。
 現在、蓋然性が伴うと考えられる要素を以下に示した。しかし、これは全く順不同であり、優先順位をつけたものではない。

○弥生時代から製鉄が始まった(青銅器の技術とともに輸入された)
 前項で整理したように、日本の鉄器は弥生時代から確認されている。しかし青銅器と鉄器が並立していることにより、一般的な科学的法則性に反する事態となっている。したがって、もともと製鉄技術を持っていなかった日本古代文明に、中国の2つの技術(鉄器と青銅器)が伝わり、日本でも製鉄が広まった。この時、同時に2つの技術が伝わったので、日本の場合は段階的な発展過程を経ず、青銅器と鉄器が並立することになった。

○世界中の文明と同様に、日本にも古代鉄の製法があった
 古代中国の製鉄は「個体直接還元法」=「塊煉法」が使われた「低温製鉄法」である。この技術は、赤鉄鋼もしくは磁鉄鉱と木炭を原料として、椀型の炉で通風し、1000度近くまで熱して、鉄を固体の状態で還元する技術なので、日本の古代文明でも十分に可能である。世界中では、14世紀後半まで続けられていた普遍的な製鉄技術であるから、日本にもこの「低温製鉄法」が存在し製鉄を行っていた。

○縄文式土器の製造技術の上に、世界最古の製鉄技術が存在していた
 日本文明が世界最古で人類初である可能性は、縄文式土器の制作による。この土器は1万6千年前から作られていたので、中国の製陶技術より桁違いに古い時代から、日本には「製陶技術」が存在していた事になる。中国での製鉄技術の段階的な発展過程から考えれば、それより古い時代から「火を使って自然物を加工する」科学技術を持っていた日本古代文明の方が、中国より早く製鉄技術を獲得していたのではないか。

これ以外にも、製鉄の起源を巡る仮説はたてられるかも知れない。だが、いくつかの論点は整理することが出来る。

①まず、いずれの場合も、原材料(鉄資源と燃料・木炭等)無しには、語れないであろう。どの製鉄方法(仮説)をとるにしても、大量の原材料が必要になる。万物の全ての事象には、必ず原因があって結果が存在する以上、鉄器の制作には、莫大な原材料の議論が前提になると考える。

②現実的には考古学的発掘成果から「鉄器」や「制作跡」が出土することが望ましい。しかし、数千年や数万年単位の古代遺跡からの鉄資源の報告は確認出来ていない。また出たとしても、現在大陸や半島から持ち込んだとの理解(定説)があるため、検証の対象から外されている可能性がある。

③神話や伝承や地域に残されている言い伝えを検証の対象とすること。これまで、この分野はほとんど研究されてこなかったといっても過言ではない。特に戦後は架空の話しとしてすっかり捨て去られてきた。しかし、日本人はもともと文字を持たずに古くから口伝えによって物事を伝えてきたので、神話や伝承にこそ史実が含まれている可能性がある。最善の資料は「金屋子神話」である。したがい、この分野からのアプローチは欠かせないであろう。

以上、古代製鉄の起源を探るための概略をまとめた。製鉄の起源を探る意味は、製鉄の起源から、結局は、日本古代文明の起源を解き明かすことが出来ないであろうかという命題である。
サイエンスとテクノロジーの発展過程は、ほぼ絶対に文明の発展過程と何らかの形でリンクしている。しかし、日本の古記録である古事記や日本書紀及び風土記には、このサイエンスとテクノロジーの記録だけが書かれていないという、極めて不思議な出来事がある。
この問題も含めて、製鉄の起源と日本古代文明の起源を解き明かすことができれば、日本国家最大の課題であり、民族的問題の解決に道がつくであろう。
島根県立大学北東アジア地域研究センター市民研究員
山陰古代史研究会設立準備委員会代表
古代史研究家         田中 文也

出雲の鉄

出雲の鉄

http://tetsunomichi.gr.jp/history-and-tradition/tatara-outline/part-4/

http://www.e-aidem.com/ch/jimocoro/entry/negishi06

中国地方では、古墳時代後期から箱形炉による製鉄が一貫して続けられ、おそらく室町時代には国内随一の鉄生産地に成長したとみられています。しかし、その製法は、古代の製鉄がそのまま発展したものでなく、古代末期から中世に進められた技術改良の積み重ねを経て確立されていったものです。なかでも今日まで奥出雲に受け継がれているたたら製鉄は、この地特有の自然条件と先人の試行錯誤によって形づくられた、日本独自の砂鉄製錬技術の完成された姿といえます。

中国地方における製鉄遺跡の概要

  • 6世紀後半から11世紀頃まで――吉備きび国に集中

     中国地方のたたら製鉄遺跡は、石見いわみ(島根県西部)、出雲いずも(島根県東部)、伯耆ほうき(鳥取県)、備前びぜん(岡山県南東部)、備中びっちゅう(岡山県西部)、備後びんご(広島県東部)、美作みまさか(岡山県北東部)、および播磨はりま(兵庫県西部)の各地で確認されています。この地域では、6世紀後半から11世紀頃の製鉄遺跡が現在のところ70余り確認されています。中でも、備前、備中、美作と備後にまたがる地域、古代日本においては吉備きび国にあたる地域にその大半が集中しています。
  •    

      11世紀から16世紀頃まで――中国山地周辺、石見・出雲に移動

       これに対して、11世紀以降16世紀ころまでの製鉄遺跡は、石見、出雲、伯耆、安芸あき(現在の広島県西部)、備中、美作、播磨で多数確認されています。それまで大半を占めていた吉備においては、備前と備中南部から製鉄遺跡が全く姿を消し中国山地の備中北部と美作に限られる一方、現在の島根県にあたる石見・出雲地域が多くを占めるようになります。
       たたら製鉄の生産地の移動は、原料との関係がうかがえます。すなわち、古代における初期の製鉄では原料として鉄鉱石と砂鉄が併用されていたのに対し、古代末から中世に山陰と山陽北部に生産地域が移ってからは砂鉄のみが用いられていることです。
      • 近世(江戸時代初期以降)――「近世たたら」の確立へ

         近世たたらの製鉄遺跡は石見、出雲、伯耆、安芸、備後、備中、美作、播磨などの地域で多数確認されますが、これは11世紀以降に製鉄遺跡が展開する地域と重なっており、たたら製鉄の生産地域は、古代ではなく、古代末から中世にかけて形成されたものを継承していることを示しています。
         そして、17世紀末の天秤鞴の発明という技術革新を経て、たたら製鉄は完成されたのです。
      •   

        かんなながし・たたら炭

         近世たたらでは、鉄穴流かんなながし」という製法によって砂鉄を採取しました。
         鉄穴流しとは、まず、砂鉄を含む山を崩して得られた土砂を、水路で下手の選鉱場まで流します。この土砂の採取場を鉄穴場かんなばと呼びます。鉄穴場は、切り崩せる程度に風化した花崗岩かこうがんが露出していて、かつ水利のよい立地が必要でした。水路を流れ下った土砂は選鉱場に流れ込み、比重の大きい(重い)砂鉄と比重の小さい(軽い)土砂に分離します(比重選鉱法)。鉄穴流しでは、大池おおいけ中池なかいけ乙池おといけの4つの池での比重選鉱を経て、最終的には砂鉄の含有量を80%程度まで高めて採取しました。
        • 『鐵山記』より描かれた鉄穴流し風景[和鋼博物館 蔵]
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        • 砂鉄の採取
        •    

           


        • 採掘された花崗岩
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        • 土砂として水路を流れ下る
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        • 徐々に比重選鉱される
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        • 最終的に砂鉄に
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         また、たたら製鉄には、砂鉄の他に、大量の木炭の確保が不可欠でした。1回の操業に、たたら炭約15t前後、森林面積にして1.5ha分の材木を使ったと考えられています。したがって、たたら経営には膨大な森林所有が条件でもありました。
         たたら製鉄が中国山地で盛んになったのは、これらの条件を満たす地域であったからです。この地域は今日でも、棚田や山林などの景観に、たたら製鉄の面影を認めることができます。
        • 昭和に行われた復元創業時の木炭の製造[山内生活伝承館 蔵]
        •    

    近世には生産量日本一となった奥出雲地方


     奥出雲地方は、良質な真砂砂鉄を採取することができることに加え、豊富な山林資源から燃料となる木炭の調達も容易であるといった条件に恵まれていました。近世になると、「高殿たかどの」=製鉄設備を覆う大型建物が設けられ、大型製鉄炉・天秤鞴・床釣が整備されたことにより、鉄生産量が大きく増えました。

     この高殿で連続操業する大規模なたたらを「高殿たたら」あるいは「永代えいだいたたら」と呼びます。江戸時代後半には「高殿たたら」が出現したことで、島根県を含む中国山地一帯の鉄の生産量は最盛期には国内総生産量の大半を占め、中でも奥出雲地方は日本随一の生産地となりました。
    • 高殿たたら[菅谷すがやたたら山内さんない
    •    
                鉄穴流し」による砂鉄採取量の増加や生産施設の大型化に伴い通年操業も可能となり、また操業日数を1日短縮する「3日押し法」への転換も図られたことで、生産量は従来より約3割増加したと考えられています。和鉄生産高が最高となった明治18年(1885)には、中国地方が全国の約96%を占め、そのうち奥出雲地方(旧島根県仁多郡・飯石郡、現在の奥出雲町・雲南市)は46%を占めるまでとなりました。

              志賀、鉄への想い(ブログ)

              志賀、鉄への想い(ブログ)

              宮本常一の「塩の道」は生活の必需品であった塩がどのように広まったか、
              それに対して人々はどのように対応してきたか、を考えさせられるきっかけ
              であった。さらに、塩以上に社会の拡大に大きな役割を果たしていった鉄についても
              同様の疑問が出てきた。「鉄」は、どのように広がっていったのであろうか。
              さらに、この湖西、志賀、地域は古代鉄生産ではかなりの有力な地域であったと、
              志賀町史などに書かれている。まだまだ浅学非才のレベルであるが、少しでも
              その認識を深めていきたい。
              1.志賀での鉄生産とは、
              志賀町史では、以下の記述をベースに、その場所の探査なども含め、
              鉄への想いを深める。
              「比良山麓の製鉄遺跡は、いずれもが背後の谷間に源を持つ大小の河川の
              岸に近接してい営まれている。比良の山麓部の谷間から緩傾斜地にでた
              河川が扇状地の扇頂に平坦部をつくるが、多くの遺跡はその頂部か斜面
              もしくは近接地を選んでいる。、、、、、
              各遺跡での炉の数は、鉄滓の分布状態から見て一基のみの築造を原則
              とするものと思われる。谷筋の樹木の伐採による炭の生産も、炉操業
              にとまなう不可欠な作業である。この山林伐採が自然環境に及ぼす
              影響は、下流の扇状地面で生業を営む人々にとっては深刻な問題であって
              そのためか、一谷間、一河川での操業は一基のみを原則とし、二基ないし
              それ以上に及ぶ同時操業は基本的になされなかったものと思われる。
              各遺跡間の距離が500メートルから750メートル前後とかなり画一的
              で、空白地帯を挟む遺跡も1から1.5キロの間隔を保っていることから、
              あるいはその数値から見て未発見の炉がその間に一つづつ埋没している
              のではないかと思わせるほどである。、、、、
              本町域には現在12か所の製鉄遺跡が確認されている。いずれの遺跡も、
              現地には、精錬時に不用物として排出された「金糞」と呼ばれる鉄滓
              が多量に堆積している。なかにはこの鉄滓に混じって、赤く焼けたスサまじり
              の粘土からなる炉壁片や木炭片なども認められ、その堆積が小さなマウンド
              のようにもりあがっているものさえある。
              本町域の製鉄原料は砂跌ではなく、岩鉄(鉄鉱石)であったように思われる」。
              更には、
              「また、木之本町の古橋遺跡などの遺跡から想定すると製鉄の操業年代は、
              6世紀末と思われる。
              続日本記には、「近江国司をして有勢の家、専ら鉄穴を貪り貧賤の民の採り
              用い得ぬことをきんだんせしむ」(天平14年743年12月17日)とある。
              また日本書紀の「水碓を造りて鉄を治す」(670年)も近江に関する
              製鉄関連史料と見ることも出来るので、七世紀から八世紀にかけては
              近江の製鉄操業の最盛期であったのであろう。
              本町域にはすくなくとも20基以上の炉があっておかしくない。
              是には一集団かあるいは適宜複数集団に分かれた少数の集団が操業していた。
              さらに近江地域では、本町域他でも十個ほどの製鉄遺跡群が7,8世紀には
              操業していたようである」ともある。
              記述のある念仏山の弁天神社周辺は、小さな水の流れがあり、その水音だけでも
              落ち着くところであるが、鉄滓らしきものもその小川の中に見られる場合もある。
              「本町域の比良山麓製鉄遺跡群を構成する多くの遺跡の共通する大きな特徴の
              一つは、そのなかに木瓜原型の遺跡を含まないことである。木瓜原遺跡では
              一つの谷筋に一基の精錬炉だけではなく、大鍛冶場や小鍛冶場を備え、製錬から
              精錬へ、さらには鉄器素材もしくは鉄器生産まで、いわば鉄鉱石から鉄器が
              作られるまでのおおよそ全工程が処理されていた。しかし、この一遺跡
              単一炉分散分布型地域では、大鍛冶、小鍛冶に不可欠なたたら精錬のための
              送風口であるふいごの羽口が出土しないことが多い。本町域でもその採集は
              ない。山麓山間部での製錬の後、得られた製品である鉄の塊は手軽に運び
              出せるように適度の大きさに割られ、集落内の鍛冶工房で、脱炭、鉄器生産
              の作業がなされる。小野の石神古墳群三号墳の鉄滓もそのような工程で
              出来たものである。しかし、この古墳時代には、粉砕されないままで、河内や
              大和に運ばれ、そこで脱炭、鉄器生産がなされるといった流通形態をとる
              場合も多くあった。、、、、」。

              また、平成6年から8年の調査では、14基の製鉄遺跡が確認されたという。
              北から北小松の賤山北側遺跡、滝山遺跡、山田地蔵谷遺跡、南小松のオクビ山遺跡、
              谷之口遺跡、弁天神社遺跡、北比良の後山畦倉遺跡、南比良の天神山金糞峠
              入り口遺跡、大物の九僧ケ谷遺跡、守山の金刀比羅神社遺跡、北船路の福谷川遺跡、
              栗原の二口遺跡、和邇中の金糞遺跡、小野のタタラ谷遺跡である。
              更に総括として、
              「各遺跡での炉の数は鉄滓の分布状態から見て、1基を原則としている。
              比良山麓の各河川ごとに営まれた製鉄遺跡は谷ごとに1基のみの築造を原則
              としていたようで、炉の位置より上流での谷筋の樹木の伐採による炭の生産も
              炉操業に伴う不可欠の作業であった。下流での生活、環境面の影響も考慮された
              のか、1谷間、1河川での操業は、1基のみを原則として2基以上の操業は
              なかったと判断される。各遺跡間の距離が500もしくは750メートルとかなり
              均一的であり、おそらく山麓の半永久的な荒廃を避け、その効率化も図ったとも
              考えられる」。
              地図に分布状況を入れていくと、なるほどと思われる。

              2.日本の鉄文化の始まり
              「弥生の鉄文化とその世界」の記述では、
              「発掘例を見ると、鉄の加工は弥生時代中期(紀元前後)に始まったと見て
              まず間違いないでしょう。しかし、本当にしっかりした鍛冶遺跡はないのです。
              例えば、炉のほかに吹子、鉄片、鉄滓、鍛冶道具のそろった遺跡はありません。
              また、鉄滓の調査結果によれば、ほとんどが鉄鉱石を原料とする鍛冶滓と判断
              されています。鉄製鍛冶工具が現れるのは古墳時代中期(5世紀)になってからです。
              鉄器の普及この弥生時代中期中葉から後半(1世紀)にかけては、北部九州では鉄器
              が普及し、石器が消滅する時期です。ただし、鉄器の普及については地域差が大きく、
              全国的に見れば、弥生時代後期後半(3世紀)に鉄器への転換がほぼ完了する
              ことになります。
              さて、このような多量の鉄器を作るには多量の鉄素材が必要です。製鉄がまだ行われて
              いないとすれば、大陸から輸入しなければなりません。『魏志』東夷伝弁辰条に「国、
              鉄を出す。韓、ワイ(さんずいに歳)、倭みな従ってこれを取る。諸市買うにみな鉄を
              用い、中国の銭を用いるが如し」とありますから、鉄を朝鮮半島から輸入していたこと
              は確かでしょう。
              では、どんな形で輸入していたのでしょうか?
              鉄鉱石、ケラのような還元鉄の塊、銑鉄魂、鍛造鉄片、鉄テイ(かねへんに廷、長方形
              の鉄板状のもので加工素材や貨幣として用いられた)などが考えられますが、まだよく
              分かっていません。
              日本では弥生時代中期ないし後期には鍛冶は行っていますので、その鉄原料としては、
              恐らくケラ(素鉄塊)か、鉄テイの形で輸入したものでしょう。銑鉄の脱炭技術(ズク
              卸)は後世になると思われます」。
              と書かれてもいます。ただ、製鉄が行われたのが、弥生時代なのか、さらに後なのか
              色々と説はあるようですが、弥生時代にはまず武具として、その後、農具として
              使われていったようである。これは福岡や佐賀県で出土したものからも言えるらしい。

              また、鉄の生産開始を推測される以下のような記述もある。
              欽明天皇記に「鉄屋(くろがねのいえ)を得て還来り」とあるのは、朝鮮半島の戦いで
              製鉄の工人を連れ帰ったことという考えもあるようだ。
              農耕経済を中心とした弥生文化が急速な発展をし、全国的に鉄器が広がるにつれて、
              農産物の生産量が増え、さらに経済力は強まった。これにより集落が小国家の
              ような組織体となり、原始的な国家形成へと進んだ。
              このため、鉄は、武具、農具としても重要な役割を果たしていく。

              3.志賀の鉄生産の状況
              全国的な国家形成、強化の中で、志賀も鉄生産の拠点として重要な位置を占めていた。
              日本の鉄歴史の中に志賀での記述はほとんど見られない。しかし、古代、
              この地域が国の発展に欠かすことが出来ない場所であったということは、町史の記述が
              やや我田引水的要素があったとしても、素晴らしいことである。
              志賀町史はさらに言う。
              「近江の鉄生産がヤマト王権の勢力の基盤を支えていた時期があったと思われる。
              このような鉄生産を近江で支配していた豪族には、湖西北部の角つの氏、湖北
              北部の物部氏、湖南の小槻氏などが推定されるが、比良山麓では和邇氏同族として
              多くの支族に分岐しつつも擬制的な同族関係を形成していた和邇部氏が有力な
              氏族として推定される。また、ヤマト王権の存立基盤として不可欠であった
              鉄生産を拡大しつつ、新しい資源の他地域、他豪族に先駆けての発見、開発は
              和邇氏同族にとっての重要な任務であった。早い時期に中国山脈の兵庫県千穂
              川上流域にまでかかわっていたらしく、「日本書紀」「播磨国風土記」の記載
              を合わせよむと次のように要約できる。播磨国狭夜郡仲川里にその昔、丸部具
              そなふというものがおり、この人がかって所持していた粟田の穴合あなから開墾中に
              剣が掘り起こされたが、その刃はさびておらず、鍛人を招き、刃を焼き入れしようと
              したところ、蛇のように伸びちじみしたので、怪しんで朝廷に献上したという。
              どうやら和邇氏同族である栗田氏がかって、砂鉄採取が隆盛を迎える以前の段階に、
              この地で鉄穴による鉄鉱石の採掘、そして製錬を行っていたが、後に吉備の
              分氏に、おそらく砂鉄による新しい操業方法で駆逐され、衰退していき、その後
              かっての栗田氏が鉄穴でまつっていた神剣が偶然にも掘り出されたことに、
              この御宅に安置された刀の由来があると考えられる。
              このことから、千種川上流域での初期製鉄操業時には和邇氏同族の関与があり、
              鉄鉱石で製錬がなされていたことが推測されるが、おそらくヤマト王権の
              支配下での鉄支配であったと思われる。これらの地域で製造されたけら(鉄塊)
              もまた大和、河内に鉄器の原料として運び込まれたものと推定される。
              出雲の製鉄でもその工人は千種から移り住んだものとの伝承もある。
              近江の製鉄集団が千種、出雲の工人集団の祖であるといった観念が存在
              していたのであろうか。
              本町域の鉄資源もまた少なくとも二か所からあるいは二系統の岩脈から
              採掘していたことがうかがわれる。これらは豊かな山腹の山林で炭を焼き
              これを燃料として操業を続けたのであろう」。

              4.なぜ、湖西なのか、継体天皇の誕生、和邇氏とのつながり
              志賀町史での指摘は中々に、面白い。
              5世紀後半の雄略天皇の時代は、王の権力が確立した時代として、日本の古代史上
              大きな意味を持っている。その具体的な事実の1つとして5世紀代に朝鮮半島から
              移住してきた先進技術者を主に大阪平野に定住させ、王直属の手工業生産組織に
              編成したことにある。そのような手工業生産組織の中に、他の技術者に部品を提供
              したり、みずから武器や工具、農具を作ったりする鉄器生産集団がいた。
              彼らを「韓鍛冶からかぬち」という。韓鍛冶は単なる鍛冶師(小鍛冶)ではなく、
              鉄の素材(けらを小割にしたもの)を繰り返し鍛えて精錬(大鍛冶)する技術
              も持っていた。この中央の韓鍛冶に鉄素材を供給していた有力な候補地として
              近江と播磨がある。
              日本列島では弥生時代から鉄が作られていた。砂鉄を原料としてごく少量の
              しかも低品質の鉄が作られていたと考えられる。
              8世紀には播磨や近江において岩鉄を採掘していた。(播磨国風土記、続日本記)
              中国地方の美作、備前、備中、備後(広島)、伯耆(鳥取)、九州の筑前の6か国
              は、官人への給与あてる税として、鉄、鉄製品を貢納していた。それに対して、
              優良な鉄素材を生産していた播磨、近江は、直接に中央政府や王族、貴族に
              供給していたらしく、税として徴収される国からはのぞかれていた。
              この違いを生じたのは、ヤマト国家時代にまでさかのぼるとされる。なぜなら、
              5世紀から6世紀に初めにかけて、ヤマト政権は、播磨と近江から2代続けて
              ヤマト王権の聖なる女性に婿入りさせているからである。この2代の入り婿
              には、播磨と近江との鉄生産体制を王権の直接支配下に吸収するという意図が
              秘められていたと思われる。
              「続日本記」には、近江の「鉄穴」に関する記事が3か所出てくる。他の地域には、
              鉄穴の記事はなく、このことは近江でしか見られない特徴である。このことからも、
              近江の製鉄は日本の中でも一番優れていたものであったといえる。
              この時代の鉄穴とは、鉄鉱石の採掘場だけをさすのではない。木炭の生産、製錬や
              精錬の作業を含む鉄生産を一貫しておこなう、いわば製鉄工場であった。
              都の皇族や貴族がこれらを独占し、近江の一般庶民は鉄を生産しながらそれを入手
              できなかった。浅井郡高島郡など野坂山地の鉄穴は、近江のなかでももっとも
              優良かつ大規模なものであったと推測される。
              本町の歴史ともかかわる湖西北部の本格的な製鉄は、5世紀後半にはじまる
              ようである。
              高島郡高島からヤマト王権の聖なる女性であるキサキの婿として迎えられて王
              となった継体天皇の経済基盤は、鉄の生産と水上交通によるヤマト政権への
              供給であったと考えざるを得ない。
              彼がヤマト政権に迎え入れられ、高島郡マキノや今津などで本格的に鉄の大規模
              生産が行われ、勝野津からヤマト王権の中心地へ運送、供給が成立したと思われる。
              このような製鉄工場は、間もなく比良山地でも操業され、志賀の小野に残るタタラ谷
              や比良山地の金糞峠などの地名はかってこの地が製鉄工場であったことを示唆
              している。
              さらに、
              角山君の祖先たちは、古くから高島郡マキノ町、今津町域で餅鉄による製鉄を
              行っていたと思われる。今津町の妙見山古墳群から鉄滓が発見されているし、
              甲塚古墳群からは精錬滓が見つかっている。また、和邇部氏はヤマト朝廷の
              和邇臣に所属する疑似同族であり、本質的な関係を持っていた。
              更には、天理の和邇はヤマト朝廷を支える巨大豪族であり、鍛冶師に
              由来する社会的機能集団でもあった。そのため、和邇部氏は和邇しと結びつく
              時に合わせ、比良山地の餅鉄を集めて鉄素材を生産し、和邇氏は以下の
              鍛冶師集団に供給していたと考えられる。小野氏は和邇部氏よりも後に
              この地域に進出してきたようであるが、小野神社の始祖であるタガネツキ
              大使主命は、元来は鍛冶師の神であり、和邇部氏の始祖神と思われる。
              このことなどから鉄素材をタガネで小割して、和邇臣配下の鍛冶師に
              供給していたと考えられる。
              本町域は、湖北や高島と並んで、日本最古の製鉄が始まった地域でもあった
              と推測される。

              武器や農具など鉄需要の高まりとヤマト政権とのつながりの深さ、比良山系の豊富な
              木材などが大きな要素となって湖西でも本格的な製鉄が進められたのかもしれない。
              先ほどの調査でも、言っているが、近世、独占的になされた中国地方の砂鉄に
              よる製鉄のイメージが強すぎるためか、例えば、司馬遼太郎の鉄についての記述でも
              中国地方がほとんど、近江での製鉄については、脚光を浴びることがなかったものの、
              この地域での製鉄の歴史への関与がそれなりにあったという歴史的な事実は
              再認識すべきかもしれない。

              しかし、製鉄が近世まで続き、繁栄をしてきた奥出雲のたたら製鉄の紹介を読むと、
              湖西地域の製鉄が繁栄していった場合の怖さも感じる。
              「近世たたらでは、「鉄穴流かんなながし」という製法によって砂鉄を採取しました。
              鉄穴流しとは、まず、砂鉄を含む山を崩して得られた土砂を、水路で下手の選鉱場
              まで流します。この土砂の採取場を鉄穴場かんなばと呼びます。鉄穴場は、切り
              崩せる程度に風化した花崗岩かこうがんが露出していて、かつ水利のよい立地が
              必要でした。水路を流れ下った土砂は選鉱場に流れ込み、比重の大きい(重い)
              砂鉄と比重の小さい(軽い)土砂に分離します(比重選鉱法)。鉄穴流しでは、
              大池おおいけ→中池なかいけ→乙池おといけ→樋ひの4つの池での比重選鉱を経て、
              最終的には砂鉄の含有量を80%程度まで高めて採取しました。
              また、たたら製鉄には、砂鉄の他に、大量の木炭の確保が不可欠でした。
              1回の操業に、たたら炭約15t前後、森林面積にして1.5ha分の材木を使ったと
              考えられています。したがって、たたら経営には膨大な森林所有が条件でもありました

              たたら製鉄が中国山地で盛んになったのは、これらの条件を満たす地域であったから
              です。この地域は今日でも、棚田や山林などの景観に、たたら製鉄の面影を認めること
              ができます」。

              ただ、これは、荒れた山野をいかに修復し、保全するといった先人の努力の結果
              でもあるのだ。森の修復には、30年以上かかるといわれ、雨量の少ない地域では
              百年単位であろうし、修復できない場合もあるようだ。さほど雨量が多いと
              言えない湖西では、近世までこのような製鉄事業ができたか、は疑問だ。
              多分、奥出雲のような砂鉄で良質な鉄が大量にできる地域が出てきたことにより、
              この地域の製鉄も衰退していったのでは、と考えざるを得ない。
              ある意味、後世の我々にとっては、良きことだったのかもしれない。

              鉄生産と神々メモ 鉄と神

              鉄生産と神々メモ

              鉄と神


              歴史と素敵なおつきあい2008・7・11・金曜  座学
              鉄と神
                                                     
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              ケラ
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              お台場の未来館展示
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              未来館でたたらをしたときにできたケラ
              2014・4・11撮影


              人間と鉄との出会い

              隕鉄―小惑星の核のニッケルを多く含む鉄。核の冷却速度が遅いため特異な組織をもつ
              砂鉄、鉄鉱石―山火事、たき火などで鉄に還元され、偶然発見されたと考えられる。

              製鉄のはじまり

              鉄の精錬技術を独占していたBC20世紀ヒッタイト(トルコ)からといわれる。ヒッタイト帝国はBC19世紀に歴史に登場する。エジプトの全盛時代、ラムゼス2世と互角に戦うが、BC12世紀に衰退する。それを契機に製鉄技術が広まったといわれる。

              日本の製鉄のはじまりの通説

              日本は、弥生時代に青銅器と鉄器がほぼ同時に流入(韓鍛冶)しており、石器時代から青銅器時代を飛び越え鉄器時代に突入したと言われている。しかしながら、『魏志』などによればその材料や器具はもっぱら輸入(鉄挺・鉄素材)に頼っており、日本で純粋に砂鉄・鉄鉱石から鉄器を製造出来るようになったのは、たたら製鉄の原型となる製鉄技術が確立した6世紀の古墳時代に入ってからだと考えられており、たたらによる製鉄は近世まで行われる。製鉄遺跡は中国地方を中心に北九州から近畿地方にかけて存在する。7世紀以降は関東地方から東北地方にまで普及する。


              古代製鉄の条件

              1.日本列島の地質は砂鉄が多い!
                  花崗岩から構成され」花崗岩には磁鉄鉱が多く含まれる。
                  日本の場合、ユーラシアプレート、太平洋プレート、
                  北米プレート、フィリピンプレートがぶつかり、
                  巨大な圧力によって近くの花崗岩が砕かれる。
                  それでもろく風化しやすい。
                  結果、磁鉄鉱が粒になった砂鉄が多く、
                  世界の三大砂鉄産地といわれる。(ニュージーランド、カナダ)
                   (関岡正弘)
               
              2、森林が多い!
                  朝鮮に木が少ないのは古代製鉄のためであると
                  司馬遼太郎はいっているが、
                  日本は森林を伐採し、植林することで再生が早い気候である。

              3、風通しのよい丘陵!    
                   鞴(ふいご)など風を送る装置が考えられる前は自然風を利用した。

              4、水が多い!         
                    鉧(けら)の冷却、砂鉄の鉄穴流しに利用。


              鉄の発見

              砂鉄―地表に近い所に砂鉄があり、その地表で土器を焼いた時、砂鉄から還元された鉄が得られた可能性がある。
              砂鉄のたくさん含まれる浜辺で焼いて偶然鉄を発見したかもしれない。

              餅鉄(もちてつ・べいてつ)―東北には餅鉄という純度の高い(鉄分70%)磁鉄鉱がある。
              大槌町(岩手・遠野、釜石に隣接)あたりに古代製鉄遺跡がみられる。
              明神平では3600年前のカキ殻の付着した鉄滓が出土している。
              明神平には小槌神社があり、現在の祭神はヤマトタケルだが、
              もとは、古代の製鉄を普及した先人が祀られていたという。
              この縄文人はお盆状の野焼き炉に餅鉄とカキ殻をいれて火をかけ、
              矢鏃、釣り針を作ったらしい。
              ちなみに舞草鍛冶は、岩手県一ノ瀬の舞川あたりでとれる餅鉄の製鉄が
              発祥といわれる。(HP劇場国家日本より)


              高師小僧(たかしこぞう)


              愛知県豊橋にある高師原で発見された褐鉄鉱の塊のことである。水辺の植物の根に鉄バクテリアの作用で水酸化鉄の殻を作る。時を経て植物が枯れ中央に穴のあいた塊が残る。高師原に戦前陸軍の演習場があって雨が降ると頭を出し、幼児が並んでいるようにみえたことから名付けられた。
              全国の製鉄遺跡がみつかった場所に多くみられる。
              代表的なところが諏訪地方、大阪府泉南市、滋賀県日野町別所などがある。
              諏訪の川には葦が茂り、諏訪湖のほとりも葦がたくさんある。ここにスズといわれる塊が製鉄原料として使われた

              スズ=褐鉄鉱の塊=高師小僧=みすず=鳴石
              「三薦(みすず)(水薦(みこも))刈る 信濃の真弓 わが引けば 貴人(うまひと)さびて いなと言わかも」
              みすずは信濃国の枕言葉で、「みこもかる」は「みすずかる」ではないのかと賀茂真淵が唱えたことからみすずは、スズ竹のことであるといわれた。スズ竹は、篠竹で諏訪に多く産する。
              うたの意味は「この弓を引いてあなたの気を引くのは貴人みたいで、あなたはいやがるかしら!?」という意味である。

              湛え神事

              諏訪大社の古い神事のことで、高鉾につけられた鉄鐸が使用される。
              鉄鐸は、てったく・さなぎと呼ばれ銅鐸の原形といわれる。湛え神事は作物の豊穣を願う神事といわれているが、スズの増殖、鈴なりに地中に生成されることを願ったのではないかと考えられてきている。



              諏訪大社

              祭神は建(たけ)御名方(みなかた)命(のかみ)(南方刀美命)で、出雲の国譲りで納得できず諏訪に逃げてきた神である。
              土着の洩(もり)矢(や)神(しん)を制し祭神となった。洩矢神は鉄輪を使い、建御名方命は藤の枝を使って戦った。
              藤は砂鉄を取り出す鉄穴流しで使うザルで、この話は製鉄技術の対決だったという。



              古代鉄関連地名・関連語

              砂鉄 : スサ(須坂)・スハ(諏訪)・スカ(横須賀)・サナ(真田、猿投)

              錆 : サヒ(犀川)・サム(寒川)・サヌ(讃岐) 

              鍛冶:鍛冶ヶ谷、梶ヶ谷 
                       
              ズク、銑鉄 : スク~ツク(筑波)・チク(千曲川)

              穴に住む人、鉄クズ : クズ(国栖)・クド(九度山)  
                   
              踏鞴 : タタラ(多々良浜)・ダイダラ(太平山・秋田)―ダイダラボッチ伝説


              吹く : フク(吹浦)・イフク(伊吹山)・吹田 
               
              鉄穴流し : カンナ(神奈川・神流(かんな)川) 鉄の古語 : ヒシ~イヒシ(揖斐川)

              朝鮮語で刀 : カル(軽井沢)・カリバ(狩場)  

              溶けた鉄 : ユ(湯沐村)・ヌカ(額田) 水銀 : ニ(丹生、新田)

              葉山―羽山―羽黒―鉄漿 
               
              芋―鋳物―イモー溶鉱炉―炭―鋳物師(いもじ)村―鋳母(けら) 


              別所 : 浮囚 、製鉄地 
              百足:東北地方の鉱物の呼び名―赤百足(金、銅)・白百足(銀)・黒百足(鉄)・縞百足(その他の金属)

              砂鉄を熔解し、湯出口(ゆじぐち)からノロ(鉄滓)を吐き出す。これを沸ぎ間(たぎま)という。
              最初のノロを初花という。
              頭領は砂鉄を扱うのが村下、木炭投入が炭坂という。
              丸三日のかかり一夜(ひとよ)という。
              初日の炎の色は朝日の色、中日は昼間の色、三日目は夕日の色になる。鉄塊をコロといい、叩き割って鉧(けら)と銑(ずく)を分ける。
              鉧は鋼鉄、銑は銑鉄の原料となる。
              青と呼ばれる真砂からは、鉧が多く赤目という砂からは銑が多い。
              真砂は鉧押法(けらおしほう)といい、赤目は銑押法(ずくおしほう)という。
              これを踏鞴吹き(たたらふき)といい、大きな鞴を使った。
              火炉(ほど)は女陰、風の吹き込み口を羽口というがそれを陽根にみたて、鉄の生産=出産にみたてる。
              ところが、人の出産は、忌避され女房が出産するとひと月近く夫も高殿(たたら)には入らない。
              女も高殿には入れず、山内にいる女性は飯炊きのみである。
              番子(送風を足踏みで行うこと)で足を痛めるので「ビッコ」をひく。
              火炉を見つめ、目を悪くするので目鍛冶から「めっかち」「がんち」といわれる。
              口で火を吹くさまから「ひょっとこ」といわれる。


              金屋子信仰―白鷺にのって出雲に降り立ち、桂の木(神木)で休んでいたところ、土地の宮司の祖先阿倍氏に会い、製鉄を教えた。
              中国地方各地に伝説があり、村下となった。

              一般に女神とされる。麻につまずいて死んだので麻が嫌い。
              犬に追いかけられて蔦に登って逃れようとしたが蔦が切れて落ち、犬にかまれて死んだので蔦と犬は嫌い。

              他説では犬に追いかけられみかんの木に登り、藤に掴まって助かったのでみかんと藤は好き。
              死体を桂の木に下げると大量に鉄が生産できるので、死体を好んだ。
              自分が女性なので、嫉妬からか女性が嫌い。村下は女性のはいった湯にはつからない。

              鉄・鍛冶の神


              稲・・稲妻・・雷神・・餅・・武甕槌大神タケミカヅチ(宮城・塩釜神社)賀茂別雷命(京都・上賀茂神社・葛城を本拠にした渡来人で製鉄技術を伝えた秦氏の氏神)・・建御雷神(塩釜神社)

              稲・・鋳成り(いなり)・・稲荷・・宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)豊宇気毘売(とようけびめ))・御饌津神(みけつのかみ)・・三尻神・・三狐神・・伏見稲荷

              蛇・・龍・雷・虹・菖蒲の葉・刀―建御名方神タケミナカタノカミ(大国主の子)・・諏訪大社

              蛇・・三輪山・・大物主大神(おおものぬしのおおかみ)・大巳貴神(おおなむちのかみ)・・大神(おおみわ)神社

              金山彦・・イザナミの子・・南宮大社(岐阜)・・黄金山神社(宮城・金崋山)

              金屋子神(かなやこのかみ)=天目一箇神(あめのまひとつのかみ)・・金屋子神社(島根)

              一つ目小僧・・片目伝説・・一目連(いちもくれん)・・天目一箇神(あめのまひとつのかみ)・・天津麻羅(あまつまら)・・多度大社(三重県桑名)・・天目一神社(兵庫県西脇)

              風の神・・一目連(いちもくれん)・・多度大社・・龍田神社(奈良県生駒にあり、法隆寺の鎮守)

              風の神・・蚩尤(しゆう)(武器の神・風を支配)・・兵主神(ひょうずのかみ)・・穴師坐兵主(あなにいますひょうず)神社(奈良)・・伊太祁曽(いたきそ)神社(和歌山)・・五十猛命(いそたけるのみこと)(木の神)


              天日槍(あめのひぼこ)・・新羅の王家の者と伝えられる・・韓鍛冶集団の渡来・・出石(いずし)神社(兵庫県豊岡・但馬国一之宮)


              火・・たたら・・火之迦大神(ひのかぐつちのおおかみ)・・秋葉神社(静岡県浜松)愛宕神社(京都右京区)

              百足:三上山(天目一箇神)・赤城山(大巳貴神)・信貴山(毘沙門天)・二荒山(大巳貴神)

              東南風・・イナサー東南風は黒金をも通す(鹿島)・・武甕槌大神タケミカヅチノカミ(物部の神)・・鹿島神宮

              経津主(ふつぬし)・・星神・・鉱山は星が育成すると考えた・・香取神宮(千葉)鹿島神宮(茨城)春日大社(奈良)塩釜神社(宮城)

              山の神・・大山祇命(おおやまつみのみこと)・・大山祇神社(愛媛)三島大社(静岡)大山阿夫利神社(神奈川)寒川神社(神奈川・古代の祭神が大山祇といわれている)

              小人・・小さ子・・小人部・・一寸法師・・少彦名神スクナヒコノカミ(体が小さく大国主とともに国造りに関わる・温泉・酒)・・大国主系、淡島系神社・・出雲大社・・気多神社・・大神神社・・伊福部氏

              河童・・川子大明神・・水天狗・・海御前(二位の尼と安徳天皇の後を追って入水し、河童になった伝説)・・水天宮


              巨人・・ダイダラボッチ・・デイタラボッチ・・たたら・・榛名湖・・富士山・・浅間山・・筑波山・・赤城山・・浜名湖・・世田谷区代田・・相模大野の鹿沼・・鬼怒川・・利根川・・秋田太平山・・羽黒山など。

              跛者・・びっこ・・足萎え・・恵比寿・・西宮神社(兵庫県西宮)

              吹く・・伊吹・・伊福部・・銅鐸・・スズ・・諏訪系神社

              吹く・・できもの・・疱瘡神(牛頭天王)・・素戔嗚尊・・八坂神社(京都)

              丹生タンショウ・・誕生―出産、安産の神・・丹生神社(にゅうじんじゃ)(和歌山)・・丹生津姫(紀元前8世紀春秋戦国時代に渡来した呉の太白の血筋の姫)・・丹生津姫神社(和歌山)

              八大天狗・・山伏・・愛宕山(太郎坊、京都)・鞍馬山(僧正坊、京都)・比良山(次朗坊、滋賀)・英彦山(豊前坊、福岡)・飯縄山(三郎、長野)・大峰山(前鬼坊、奈良)・白峰山(相模坊、香川)・相模大山(伯耆坊、神奈川)

              天狗・・秋葉山(三尺坊)羽黒山(金光坊)高尾山(飯縄権現)大雄山最乗寺(金太郎)など
                  出羽三山・・月読命月山神社・・羽黒権現出羽(いでは)神社・・大巳貴命・・大山祇命・・湯殿山神社

              鬼・・温羅(うら)・・吉備津(きびつ)神社の鳴釜神事の竈の下に温羅の首を埋めた・・死体を南方の柱に結び付けると鉄がわく(たたら)

              吉備津彦命(四道将軍・温羅伝説・桃太郎伝説)吉備津神社(岡山・備中一之宮・矢立神事)・・大江山の鬼退治(銅鉱脈)・・鬼嶽稲荷神社稲荷大神


              一寸法師・・清水寺(十一面千手観音)の音羽の滝、音羽山(金、銀、銅がとれ元清水寺の地といわれる・京都)

              坂上田村麻呂(清水寺寄進)・・鬼退治伝説の地は、東北の鉱脈が多い

              湯・・湯立神事・・大湯坐―唖(ホムツワケ火持別で、火中生誕)・・白鳥が鳴いたら唖が治った・・天湯河板挙(神(あめのゆかわたなのかみ)(白鳥を献じた人)天湯河田神社(鳥取)・・金屋子神の乗った白鷺―客神(まろうど)・・白鳥・・餅・・矢・・矢にまつわる神事(弓矢は釣針と同一・幸福をもたらし、霊力がある)


              朝日・・日吉・・日野・・猿・・日光二荒山・・俵藤太・・三上山・・百足山・・炭焼藤太・・淘汰―金、砂鉄を水で淘る(ゆる)

              木地師・・惟喬親王・・小野・・小野氏・・小野氏の流れの柿本人麻呂・・鍛冶・・米餠搗大使命(たかねつきおおおみのみこと)小野神社製鉄地に多くある神社

              お歯黒・・鉄漿(かね)・・鉄・・羽黒山神社・・鉄を多く含むハグロ石・・鉄鉱泉・・修験道・・出羽三山・・湯殿山神社(大巳貴神)

              修験道・・鉱山・・もともと修験道は神仙薬を探し求めた(水銀、ヒ素)・・不老長寿薬・・中央構造線

              水銀―・・丹生・・丹生津姫(大陸から渡来した姉妹でのちに天照大神と丹生津姫になった)・・お遠敷(おにう)明神(二月堂のお水取りで若狭から水を送る神)・・罔象女(みずはのめ)(天照大神の子で漂う神)水神・・ミズハー水刃(金属)

              毘沙門天・・製鉄神・・鞍馬山(鞍馬寺)、愛宕山、信貴山(朝護孫子寺・毘沙門天・奈良)

              妙見神・・秩父神社(埼玉)千葉神社(千葉)日蓮宗の寺(妙見菩薩)

              不動明王・・産鉄地に多い 真言宗、天台宗の寺院

              虚空蔵菩薩・・妙見神・・北辰信仰・・虚空蔵山(佐賀、水銀・波佐見鉱山)虚空蔵尊(高知、金)虚空蔵尊(三重、金剛証寺、銅、クロム、コバルト、鉄、ニッケル)能勢妙見(大阪、金、銀、銅)磐裂(いわさく)神社(栃木・足尾銅山)七面天女―吉祥天―妙見神(山梨・敬慎院・甲州金)清澄寺(虚空蔵菩薩・妙見尊・金剛薩埵―ダイヤモンドのように堅く不変の金属・角閃石・斜長石・黒雲母・丹生など)

              東北のキリシタン・・南蛮製鉄を伝え、伊達藩では産業擁護のため、キリシタンの多い製鉄民を保護していたが、幕府に逆らえず、処罰した。(岩手県東磐井郡大籠)



              参考:金属と地名、青銅の神の足跡:谷川健一 
              隠された古代:近江雅和 
              黄金と百足、金属鬼人柱:若尾五男 
              日本古代祭祀と鉄、古代の鉄と神々:真弓常忠 
              風と火の古代史(よみがえる産鉄民):柴田弘武 
              鉄の民俗史:窪田蔵郎 
              神々と天皇の間:鳥越憲三郎 
              杉山神社考:戸倉英太郎 
              古代山人の興亡:井口一幸  
              弥生時代のはじまり:春成秀爾  
              ながされびと考:杉本苑子
              伊勢の神宮ヤマトヒメ御遷幸のすべて:大阪府神社庁 
              古代の製鉄:山本博 
              古代伝説の旅(電車・バス・徒歩でたどる東急沿線):新井恵美子 
              靖国刀:トム岸田 
              鉄から読む日本の歴史、 新羅花苑(壬申の乱異聞):宇田伸夫 
              日本科学古典書(鉄山秘書):三枝博音  
              まぼろしの鉄の旅:倉田一良 
              古代東北エミシの謎 日本の神々:鎌田東二 
              鬼の日本史:沢史生 
              鶴見川流域の考古学:坂本彰  
              空海と錬金術:佐藤仁 
              空海の風景:司馬遼太郎 
              古代史を解く九つの謎:黒岩十吾 
              日本神話の謎がわかる:松前健 

              HP:中央構造線と古代史を考える 
                伊太祁曾さんの風土記 
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