2016年9月8日木曜日

近江の製鉄

近江の古代製鉄について 


古くから「近江を制するものは天下を制する。」と言われ、権力者の争奪の的となった近江は、地政学上の好条件を備えた国であるばかりでなく,古代における近畿地方最大の鉄生産国でもありました。




(左図)古墳後期~奈良時代の製鉄遺跡分布
 (発掘調査済み、穴澤義功より)


現在、滋賀県下には60箇所以上の製鉄遺跡が判っており、一つの遺跡が一つの炉とは限らないので、その製鉄炉となると相当な数にのぼります。(下図 村上英乃助1991より)

考古史学的に見ますと、昭和18年に国学院大学の樋口清之教授が伊吹山麓の調査を実施し報告しましたが、この時確認された遺跡は現在追認されていません。この時、この製鉄が鉄鉱石を原料としているもので、息長氏との関係があるであろう、としています。
昭和42年に京都大学の高福盛氏が、修士論文でマキノ鉱山の地質を調べ、その後、同志社大学の森浩一教授がマキノ町で発掘調査を実施し、「近江の鉄」が大きくクローズアップされ始めました。その後、多くの人達によって湖南や湖西地方の製鉄遺跡が次々と発見されました。(これらについては、滋賀県埋蔵文化財センターの大道和人主任技師らの研究が著しい。)
これらはいずれも鉱石系箱形炉で、奈良時代後半以後東日本で使われる高チタン砂鉄系竪形炉より高さが低く、還元されやすい原料であることが判ります。
地質学的に観ますと、県境部の山を構成しているのは秩父古生層や中生代末か新生層初期にかけて貫入したという花崗岩や斑岩類であります。
平野部に散在している山のうち彦根以北のものは古生層であり、以南のものは花崗岩や火成岩であります。盆地内の丘陵部は主に新生代後期の段丘層で、県内は古生層、中生代末の花崗岩類、新生代の地層からできています。

鉱物は、花崗岩中のベグマイト鉱物と接触帯に見られる接触鉱物が主なものであります。
ここの鉄鉱床は、古生代とその後に貫入した花崗岩との接触部にできた接触交代鉱床で、接触交代鉱床では、マグマ中のハロゲン化物などを含んだ揮発成分が、石灰岩のような反応し易い岩石に接すると(既に平安初期の『大同類聚方〈ダイドウルイジュホウ〉』巻7に「石灰は近江国に産する。」とある。)置換反応によって、金、銅、鉄などを含む塊状の鉱床を造ることが知られています。従って、接触交代鉱床には鉄鉱床が存在する可能性が高く、マキノ町、西浅井町、石部町など多くの町で磁鉄鉱床の存在が知られています。

県内各地にあるマンガン鉱床もこの範疇に入れる研究者がいますが、鉄鉱床の核分裂反応の結果生成したとするP・フュゼー教授の説も無視できません。マンガン鉱床の存在する所が丹生〈ニュウ〉(朱または鉄朱を生む所)竜尾山〈タツオヤマ〉《近江町》、太尾山〈フトオヤマ〉《米原町・浅井町》(尾山はオロチ伝説のある山)など鉄に関わる様な地名であることから推察して、後者と考えた方が面白そうです。

万葉集には、「まがね吹く丹生のま朱〈ソホ〉の色に出〈デ〉て言わなくのみぞ我〈ア〉が恋ふらくは。」。夫木〈フウボク〉和歌集には、「まがね吹く丹生のま朱の色にだに、いかにや人のあわれとも見ん。」など、丹生の枕詞に鉄製錬を意味する「まかね吹く」を使っています。県内に二箇所ある丹生には、今でも良質の鉄朱(紅殻―酸化第二鉄)が採れます。

史料的に観ますと、『日本書紀』巻27、天智天皇9年(670年)「是歳〈コトシ〉、水碓〈ミズウス〉を造りて冶鉄〈カネワカ〉す。」と記されており、特記すべき技術の進歩があったことを示しています。
 これはダムを作って水車を動かし、この水碓によって鉄鉱石を粉砕し製錬能率を向上したものと思われます。(異説もあります。)これは天智天皇陵の近くの大岩遺跡や北牧野遺跡《マキノ町牧野》で見られます。(下図)                                     
大岩遺跡(京都山科)製鉄所跡と貯水用堤:中井正章1984より

古代の近江は、近畿地方最大の鉄生産国であり、60個所以上の遺跡が残っています。これらが古代の政治に大きく影響を与えています。

663年の白村江の戦で大敗した日本は、(一万人の兵が沈んだと記され、一人5キログラムの鉄を着けていたとすると)50トンの鉄を失ったと思われますので、これを回復するために鉄を大増産する必要があり、技術の改良がおこなわれたと考えられます。

    源内峠遺跡No.4炉               野路小野山遺跡No.7炉
 

源内峠遺跡《大津市瀬田南大萱町》、野路小野山遺跡《草津市野路町》など湖南地方の多くの遺跡はいずれも大規模で、国家権力が介入しなければ築き得なかったと考えられ、年代も一致いたします。(当時の鉄生産量は全国で年間30トン程度と推定されていますので、この敗戦が如何に大打撃であったかがわかります。)

『続日本紀』では、巻1、文武2年(698年)「近江国に令して金青〈コンゼ〉を献ぜしむ。」とあり、この金青は赤鉄鉱(金 〈コンゼ〉)のことで、甲賀の金勝〈コンゼ〉山より採取されたものであると言われています。今でもこの付近には鉄鉱石が露出しています。(異説もあります。)
巻3、大宝3年(703年)「四品志紀親王〈シホンシキノミコ〉に近江国の鉄穴〈カンナ〉を賜う。」とあり、鉄鉱山を賜った記録がありますが、何処の鉄穴か判っていません。
巻5、元明天皇の和銅6年(713年)「近江から慈石を輸納せしむ。」とあり、磁石(当時は金属磁石はなく、磁鉄鉱磁石のこと)が献上されています。(慈石が磁石であることは『陳蔵器本草拾遺』に記された「磁石は毛鉄の母也、鉄を取ることあたかも母が子を招く如し、因って(母性の慈愛に例え)慈石の文字を当てる。」からわかります。)
巻14、天平14年(742年)に「近江国司に令して、有勢之家〈ユウセイノイエ〉が鉄穴を専有し貧賤の民に採取させないことを禁ずる。」の文があり、鉄鉱山をめぐる争いを記しています。
しかし天平18年(745年)当時の近江国司の藤原仲麻呂(恵美押勝)は既に鉄穴を独占していたようで、技術者を集める「近江国司解文〈コクシゲブミ〉」が残っています。
巻24、天平宝字6年(762年)「大師〈ダイシ〉藤原恵美押勝に近江国浅井・高嶋二郡の鉄穴〈カンナ〉を各一処賜う。」とありますが、これは淳仁天皇の追認のようです。

マキノ町、西浅井町には多くの製鉄遺跡があり年代も一致していますので、これに関係があると思われます。西浅井町には鉄穴〈ジンツボ〉という地名もあります。
製鉄遺跡を年代別に分類してみますと、今津町の甲塚〈カブトヅカ〉古墳《今津町饗庭野丘陵》、東谷〈ヒガシダニ〉遺跡《今津町大供》には長さ3メートル、幅1.2メートル、厚さ30センチメートルのケラが発見されており、5世紀に鉄生産が開始されたと報告されていますが、疑問視されます。

木之本町の古橋遺跡《木之本町古橋》は6世紀のものと言われています。(ここの鉄滓は、全鉄分が多く、作業温度が低かったと考えられます。)

彦根市では平成8年5月に鳥居本の中山でゴミ処理場建設中に製鉄遺跡が発見され、5世紀のものと一部マスコミが報道しましたが、これは10世紀より古いが5・6世紀ではないことが判りました。(NHKは少し遅れましたが正確に伝えました。)

大津市の南郷桜峠(南郷遺跡)《南郷町1丁目》、源内峠《瀬田南大萱町》その他の湖南地方のものは殆どが7世紀で、近江朝時代と一致します。湖西地方のものは8世紀のものが多く、奈良時代に当たります。

9世紀に入ると近江の製鉄は急激に衰退し、僅かに木津〈コウツ〉遺跡《新旭町饗庭》と山田地蔵谷遺跡《志賀町北小松》などを残すのみとなってしまいます。
これは、桓武天皇の時代になり蝦夷〈エミシ〉征伐の度重なる失敗が(『続日本紀』巻40)武器の差である(蕨手刀〈ワラビテトウ〉には大和直刀〈ヤマトチョクトウ〉は刃が立たなかった。)ことを覚った朝廷が、坂上田村麿による硬軟両作戦の結果、アテルイを捕らえるとともに蝦夷の技術を導入し、鉱石製鉄の限界を感じ、近江製鉄を廃止し、砂鉄系箱形製鉄である播磨製鉄の発展を促したためと伝えられています。(平成8年2月8日のNHKテレビ・ライバル日本史より)

古代の政権に大きな影響を与えた近江の製鉄も、鉱石製鉄の限界がわかりはじめ、砂鉄製鉄の勃興と共に衰えて行きます。
三関〈サンカン〉の廃止による物資の交流も運賃の差により東北の鉄が都に入ることは少なかった様です。「延喜式」主税上〈シュゼイノジョウ〉の「諸国運漕穀物功賃」には、一駄で運ぶ鉄は30挺〈チョウ〉(約60kg)で、運賃が、尾張からだと21束〈ソク〉、常陸が100束、陸奥が210束と記されています。1束は米3キログラム位ですから、これでは陸奥からは買えないでしょう。
海路ならば、博多から難波まで米50石運ぶ場合、船使用料250束、人件費140束、途中の飲食費30束を加えて420束で、陸路に比して1桁安くなっています。

正倉院に蕨手刀〈ワラビテトウ〉が一振り残されいますが、これは鋒先両刃無反刀〈キッサキハモロハムソリトウ〉で、蝦夷〈エミシ〉のものとは明らかに異なり、大和直刀〈ヤマトチョクトウ〉の形式を残しています。

鉱石製錬の鉄は砂鉄製錬のものに比し鍛接温度幅が狭く、(砂鉄では1100度~1300度であるのに、赤鉄鉱では1150度~1180度しかない。温度計のない時代、この測定は至難の技だった。)造刀に不利ですが、壬申の乱のとき、大海人軍は新羅の技術者の指導で金生山〈キンショウサン〉《美濃赤阪》の鉱石製鉄で刀を造り、近江軍の剣を圧倒したといわれています。岐阜県垂井〈タルイ〉町の南宮〈ナングウ〉神社には、そのときの製法で造った藤原兼正( 竜子〈エンリュウシ〉)氏作の刀が御神体として納められています。(同町の表佐〈オサ〉《垂井町表佐》には通訳が多数宿泊していたという言い伝えがあります。地名の起源か?)当時の近江軍の剣は継体天皇の頃とあまり違っていなかったといわれています。

継体天皇といえば、6世紀初頭、播磨王N・朝の断絶に際して越前の武生から大和に進出する際、三尾氏、坂田氏、息長氏、和珥〈ワニ〉氏など近江の豪族達の女を妃に入れ、近江との結びつきを強固にして進出路を確保するとともに、その鉄資源の確保をねらっています。
その進出が決して平和のうちに行われたものでないことは、継体天皇の死と同時に皇太子、皇子が死んだという「百済本記」(日本書紀にも取り上げられています)からも推察されます。出身地が当時鉄の採れない越前であるにもかかわらず、武生〈タケフ〉(武器を生む処)、錆江〈サビエ〉(現在は鯖江〈サバエ〉となっていますが錆だまり、即ち鉄を加工・研磨した処)などの地名が殊更に続くのは、鉄を外部から持ってきたことを示すものでしょう。原料がどこから来ているかということは、日本列島が四つのプレートの上にあり、各プレートの成分に差があるので、ルビジウムゃストロンチウムの比を測定することで判定できます。
プレートのせめぎあいが地震の原因となっていますが、考古学には大きなメリットです。(奈良教育大学三辻利一〈リイチ〉教授は、前任の東北大学金属材料研究所以来10数年にわたり全国を4000箇所に分けて分析し、産地判定法を完成させました。)

年代は、同時に出土した土器などで推定する方法や、木の年輪で推定しますが、誤りも多く、近年はシカゴ大学のリビー教授が開発した放射性炭素測定法が有力です。
(同氏は、これによりノーベル化学賞を受けた。)
今のところ1000年でプラスマイナス30年程度の誤差がありますが、北京大学の陳鉄梅〈チンチェメイ〉教授は加速器を使って漢(3世紀以前)以降の鉄器を多数分析しており、最も新しいもので5世紀(南北朝時代)の洛陽の鉄塊を測定しています。
(元時代のものも測定していますが、石炭製鉄になっていて、石炭生成の年代が出て実際より古い値を与えることとなり使用できなくなります。)もっと精度が向上し10年位の誤差になれば日本の考古学も大いに変わるでしょう

(非鉄金属腐蝕センター代表)

2016年7月30日土曜日

鉄生産と神々

わが国の鉄の歴史②「古代の鉄と神々より」
2010年 12月 13日
真弓常忠「古代の鉄と神々」より

わたしはこの本を読んで、今までの自分のわずかな知識をつなぐ大きなヒントを得た。
それで要点をまとめて、書きとめておきたいと思う。
まとめ方は自分流に取捨選択しているし、氏の意図した事とは違うように解釈している
かもしれない。
だから、このペーは真弓常忠氏の「古代の鉄と神々」の正確な要約では無いことを断っ
ておく。

稲つくりと鉄
■縄文時代晩期に稲種がもたらされて、水稲耕作はわずか100年ほどの間に日本列島
のほぼ全域にいきわたった・
■水稲耕作を推し進めたのはなにか?
 それは鉄製農具か鉄製利器によって加工された木製のスキ・クワである。
■弥生時代の初期に鉄器が用いられたのは、いろいろな遺跡から鉄斧が発見されること
によって 証明されている。
 * しかしそれが製鉄のはじめからわが国で作られたものか、大陸から輸入されたもの
かは証明できない。
考古学者の山本博氏(「古代の製鉄」の作者、故人)によると
銅よりも鉄の方が溶融点は高いが、銅は溶解しなければ製品とすることが出来ないのに
対して、鉄は溶解しなくても、7~800度の熱度で可鍛鉄を得さえすれば、これを熱
してはたたき、熱してはたたいて鍛造できるという

このことは1912年にW・ゴーランドが指摘している。
それによると
*鉄鉱石から鉄を抽出する方法は、銅鉱から銅を抽出するより簡単である。
*鉄鉱石は溶解しなくとも、7~800度の熱度で可鍛鉄を得ることが出来る。
*鉄の抽出には、特定の送風装置を必要としない。
弥生式土器を焼成する程度の熱でよく、タタラ炉を築いて特殊な送風装置を設けなくて
も、野辺にて製錬することができたということであった。

露天タタラ
わが国は地下資源に乏しいが、火山が多いだけに砂鉄には恵まれていて、いたるところ
に砂鉄は存在する。

窪田蔵郎氏によると、
弥生時代には河原や海岸近くの台地、あるいは山あいの沢のような場所で、自然通風に
依存して天候のよい日を選び、燃料の薪の上に砂鉄を集積し、その上にさらに薪を積み
上げて何日も燃やし続け、海面状を呈したごく粗雑な還元鉄の塊を半焼けの金糞の中か
ら拾い出し、よさそうなものだけを再び火中に入れて加熱し、再三打ったりたたいたり
して、小さな鉄製品を作るという、きわめて原始的な方法で製鉄は おこなわれたであ
ろう。
弥生時代中期より古墳中期まで、このような原始的な方法による製鉄の行われていた事
が推測される。

わたしが理解した範囲でわが国の製鉄のながれを整理しよう。

①褐鉄鉱を採取して製鉄を行う。(弥生時代)・・・鉄鐸、銅鐸神事と関連あり
*褐鉄鉱の団塊(スズ)はそのまま或は粉砕して、露天で製鉄することができた。
  ただし、砂鉄の磁鉄鉱 に比べ品位は低く生産量も少ない。
②砂鉄(磁鉄鉱)を採取して鉄器の生産
■金穴流し
 *砂鉄による製錬は、まず鉄砂を含む山を選ぶことから始まった。この鉄砂を含む山
を「鉄穴山・神山」とい い、砂鉄をとる作業を「鉄穴流し」といい、そこで働く人々
を「鉄穴師・かなじ」と呼ぶ。
鉄穴師は砂鉄分の多い削りやすい崖を選んで山から水をひき、崖を切り崩して土砂を水
流によって押し流し、砂鉄を含んだ濁水は流し去り、重い鉄砂は沈むからこれを採って
タタラ炉に入れて製錬する。
*水田が「金穴流し」によって荒らされ、製鉄の民と農耕民の利害が衝突するのは、職
業の分化が生じ、完成した水田に土砂が流れ込むことによるもので、当初農耕の民が自
ら製鉄を行った段階では、「金穴流し」  はそのまま国づくりとなった。=オオナム
チ
 オオナムチの神を「天の造らしし大神」とするゆえんである。→倭鍛治
③4世紀後半より5世紀にかけて、帰化系技術者(韓鍛治)の渡来による技術革新と職
業の分化によって、製鉄に専従する部民と、それを管掌する氏族をも生じる。
* 古墳時代にはヤマトが大陸より多量の「鉄」を手に入れた。(⇒近つ飛鳥資料館①
参照)
*わが国の露天タタラでできる鉄の量(質)では多くの鉄製品を作ることができないが
、半島から鉄素材を手に入れることにより、鉄製品の製造(農工具、・武具)が飛躍的
に発達し、大和王権が成立することになった。
*オオナムチとアメノヒボコの争い=古いヤマトの勢力 対 外来文化を担った新しい
進歩的勢力
④やがて律令制の施行とともに特定氏族の管掌した製鉄の部民は収公される事になり、
それととも に製鉄一般の神として、金山彦が構想され、「鉄穴」から発想されたオオ
ナムチの神の製鉄に関与したかっての性格は忘れ去られた。

田中八郎氏の「大和誕生と水銀」では、
スジン天皇以前の三輪地方の発展を「辰砂・水銀」を中心にとらえている。
そして、鉄に関してはあまり触れられていない。というか鉄生産はなかったように書か
れている。
「オオタタネコ」に自分を祀らせたという記紀の意味を考えよう。
古事記には大田田根子(オホタタネコ)を大物主(オホモノヌシ)大神の祭主とした、とあ
ります。
「オオタタネコ」はオオクニヌシ(オオモノヌシ)が指名しました。

◎須恵器を作る技術をもった「オオタタネコ」は、スズ鉄か「鉄穴流し」による砂鉄か
によって鉄を作る技術を持っていたとおもわれる。
そして、原始的な砂鉄生産で「スジン」に対決したのではないだろうか?
だが半島からの鉄素材の輸入により結局は「スジン」に押されてしまう事になった。 


鉄と神
2012年 11月 20日
歴史と素敵なおつきあい2008・7・11・金曜  座学
鉄と神
                                       
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ケラ
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お台場の未来館展示
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未来館でたたらをしたときにできたケラ
2014・4・11撮影


人間と鉄との出会い

隕鉄―小惑星の核のニッケルを多く含む鉄。核の冷却速度が遅いため特異な組織をもつ
砂鉄、鉄鉱石―山火事、たき火などで鉄に還元され、偶然発見されたと考えられる。

製鉄のはじまり

鉄の精錬技術を独占していたBC20世紀ヒッタイト(トルコ)からといわれる。ヒッ
タイト帝国はBC19世紀に歴史に登場する。エジプトの全盛時代、ラムゼス2世と互
角に戦うが、BC12世紀に衰退する。それを契機に製鉄技術が広まったといわれる。

日本の製鉄のはじまりの通説

日本は、弥生時代に青銅器と鉄器がほぼ同時に流入(韓鍛冶)しており、石器時代から
青銅器時代を飛び越え鉄器時代に突入したと言われている。しかしながら、『魏志』な
どによればその材料や器具はもっぱら輸入(鉄挺・鉄素材)に頼っており、日本で純粋
に砂鉄・鉄鉱石から鉄器を製造出来るようになったのは、たたら製鉄の原型となる製鉄
技術が確立した6世紀の古墳時代に入ってからだと考えられており、たたらによる製鉄
は近世まで行われる。製鉄遺跡は中国地方を中心に北九州から近畿地方にかけて存在す
る。7世紀以降は関東地方から東北地方にまで普及する。


古代製鉄の条件

1.日本列島の地質は砂鉄が多い!
    花崗岩から構成され」花崗岩には磁鉄鉱が多く含まれる。
    日本の場合、ユーラシアプレート、太平洋プレート、
    北米プレート、フィリピンプレートがぶつかり、
    巨大な圧力によって近くの花崗岩が砕かれる。
    それでもろく風化しやすい。
    結果、磁鉄鉱が粒になった砂鉄が多く、
    世界の三大砂鉄産地といわれる。(ニュージーランド、カナダ)
     (関岡正弘)
 
2、森林が多い!
    朝鮮に木が少ないのは古代製鉄のためであると
    司馬遼太郎はいっているが、
    日本は森林を伐採し、植林することで再生が早い気候である。

3、風通しのよい丘陵!    
     鞴(ふいご)など風を送る装置が考えられる前は自然風を利用した。

4、水が多い!         
      鉧(けら)の冷却、砂鉄の鉄穴流しに利用。


鉄の発見

砂鉄―地表に近い所に砂鉄があり、その地表で土器を焼いた時、砂鉄から還元された鉄
が得られた可能性がある。
砂鉄のたくさん含まれる浜辺で焼いて偶然鉄を発見したかもしれない。

餅鉄(もちてつ・べいてつ)―東北には餅鉄という純度の高い(鉄分70%)磁鉄鉱があ
る。
大槌町(岩手・遠野、釜石に隣接)あたりに古代製鉄遺跡がみられる。
明神平では3600年前のカキ殻の付着した鉄滓が出土している。
明神平には小槌神社があり、現在の祭神はヤマトタケルだが、
もとは、古代の製鉄を普及した先人が祀られていたという。
この縄文人はお盆状の野焼き炉に餅鉄とカキ殻をいれて火をかけ、
矢鏃、釣り針を作ったらしい。
ちなみに舞草鍛冶は、岩手県一ノ瀬の舞川あたりでとれる餅鉄の製鉄が
発祥といわれる。(HP劇場国家日本より)


高師小僧(たかしこぞう)


愛知県豊橋にある高師原で発見された褐鉄鉱の塊のことである。水辺の植物の根に鉄バ
クテリアの作用で水酸化鉄の殻を作る。時を経て植物が枯れ中央に穴のあいた塊が残る
。高師原に戦前陸軍の演習場があって雨が降ると頭を出し、幼児が並んでいるようにみ
えたことから名付けられた。
全国の製鉄遺跡がみつかった場所に多くみられる。
代表的なところが諏訪地方、大阪府泉南市、滋賀県日野町別所などがある。
諏訪の川には葦が茂り、諏訪湖のほとりも葦がたくさんある。ここにスズといわれる塊
が製鉄原料として使われた

スズ=褐鉄鉱の塊=高師小僧=みすず=鳴石
「三薦(みすず)(水薦(みこも))刈る 信濃の真弓 わが引けば 貴人(うまひと)さび
て いなと言わかも」
みすずは信濃国の枕言葉で、「みこもかる」は「みすずかる」ではないのかと賀茂真淵
が唱えたことからみすずは、スズ竹のことであるといわれた。スズ竹は、篠竹で諏訪に
多く産する。
うたの意味は「この弓を引いてあなたの気を引くのは貴人みたいで、あなたはいやがる
かしら!?」という意味である。

湛え神事

諏訪大社の古い神事のことで、高鉾につけられた鉄鐸が使用される。
鉄鐸は、てったく・さなぎと呼ばれ銅鐸の原形といわれる。湛え神事は作物の豊穣を願
う神事といわれているが、スズの増殖、鈴なりに地中に生成されることを願ったのでは
ないかと考えられてきている。



諏訪大社

祭神は建(たけ)御名方(みなかた)命(のかみ)(南方刀美命)で、出雲の国譲りで納得で
きず諏訪に逃げてきた神である。
土着の洩(もり)矢(や)神(しん)を制し祭神となった。洩矢神は鉄輪を使い、建御名方命
は藤の枝を使って戦った。
藤は砂鉄を取り出す鉄穴流しで使うザルで、この話は製鉄技術の対決だったという。



古代鉄関連地名・関連語

砂鉄 : スサ(須坂)・スハ(諏訪)・スカ(横須賀)・サナ(真田、猿投)

錆 : サヒ(犀川)・サム(寒川)・サヌ(讃岐) 

鍛冶:鍛冶ヶ谷、梶ヶ谷 
         
ズク、銑鉄 : スク~ツク(筑波)・チク(千曲川)

穴に住む人、鉄クズ : クズ(国栖)・クド(九度山)  
     
踏鞴 : タタラ(多々良浜)・ダイダラ(太平山・秋田)―ダイダラボッチ伝説


吹く : フク(吹浦)・イフク(伊吹山)・吹田 
 
鉄穴流し : カンナ(神奈川・神流(かんな)川) 鉄の古語 : ヒシ~イヒシ(揖
斐川)

朝鮮語で刀 : カル(軽井沢)・カリバ(狩場)  

溶けた鉄 : ユ(湯沐村)・ヌカ(額田) 水銀 : ニ(丹生、新田)

葉山―羽山―羽黒―鉄漿 
 
芋―鋳物―イモー溶鉱炉―炭―鋳物師(いもじ)村―鋳母(けら) 


別所 : 浮囚 、製鉄地 
百足:東北地方の鉱物の呼び名―赤百足(金、銅)・白百足(銀)・黒百足(鉄)・縞
百足(その他の金属)

砂鉄を熔解し、湯出口(ゆじぐち)からノロ(鉄滓)を吐き出す。これを沸ぎ間(たぎま)
という。
最初のノロを初花という。
頭領は砂鉄を扱うのが村下、木炭投入が炭坂という。
丸三日のかかり一夜(ひとよ)という。
初日の炎の色は朝日の色、中日は昼間の色、三日目は夕日の色になる。鉄塊をコロとい
い、叩き割って鉧(けら)と銑(ずく)を分ける。
鉧は鋼鉄、銑は銑鉄の原料となる。
青と呼ばれる真砂からは、鉧が多く赤目という砂からは銑が多い。
真砂は鉧押法(けらおしほう)といい、赤目は銑押法(ずくおしほう)という。
これを踏鞴吹き(たたらふき)といい、大きな鞴を使った。
火炉(ほど)は女陰、風の吹き込み口を羽口というがそれを陽根にみたて、鉄の生産=出
産にみたてる。
ところが、人の出産は、忌避され女房が出産するとひと月近く夫も高殿(たたら)には入
らない。
女も高殿には入れず、山内にいる女性は飯炊きのみである。
番子(送風を足踏みで行うこと)で足を痛めるので「ビッコ」をひく。
火炉を見つめ、目を悪くするので目鍛冶から「めっかち」「がんち」といわれる。
口で火を吹くさまから「ひょっとこ」といわれる。


金屋子信仰―白鷺にのって出雲に降り立ち、桂の木(神木)で休んでいたところ、土地
の宮司の祖先阿倍氏に会い、製鉄を教えた。
中国地方各地に伝説があり、村下となった。

一般に女神とされる。麻につまずいて死んだので麻が嫌い。
犬に追いかけられて蔦に登って逃れようとしたが蔦が切れて落ち、犬にかまれて死んだ
ので蔦と犬は嫌い。

他説では犬に追いかけられみかんの木に登り、藤に掴まって助かったのでみかんと藤は
好き。
死体を桂の木に下げると大量に鉄が生産できるので、死体を好んだ。
自分が女性なので、嫉妬からか女性が嫌い。村下は女性のはいった湯にはつからない。

鉄・鍛冶の神


稲・・稲妻・・雷神・・餅・・武甕槌大神タケミカヅチ(宮城・塩釜神社)賀茂別雷命
(京都・上賀茂神社・葛城を本拠にした渡来人で製鉄技術を伝えた秦氏の氏神)・・建
御雷神(塩釜神社)

稲・・鋳成り(いなり)・・稲荷・・宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)豊宇気毘売(
とようけびめ))・御饌津神(みけつのかみ)・・三尻神・・三狐神・・伏見稲荷

蛇・・龍・雷・虹・菖蒲の葉・刀―建御名方神タケミナカタノカミ(大国主の子)・・
諏訪大社

蛇・・三輪山・・大物主大神(おおものぬしのおおかみ)・大巳貴神(おおなむちのかみ)
・・大神(おおみわ)神社

金山彦・・イザナミの子・・南宮大社(岐阜)・・黄金山神社(宮城・金崋山)

金屋子神(かなやこのかみ)=天目一箇神(あめのまひとつのかみ)・・金屋子神社(島根
)

一つ目小僧・・片目伝説・・一目連(いちもくれん)・・天目一箇神(あめのまひとつの
かみ)・・天津麻羅(あまつまら)・・多度大社(三重県桑名)・・天目一神社(兵庫県
西脇)

風の神・・一目連(いちもくれん)・・多度大社・・龍田神社(奈良県生駒にあり、法隆
寺の鎮守)

風の神・・蚩尤(しゆう)(武器の神・風を支配)・・兵主神(ひょうずのかみ)・・穴師
坐兵主(あなにいますひょうず)神社(奈良)・・伊太祁曽(いたきそ)神社(和歌山)・
・五十猛命(いそたけるのみこと)(木の神)


天日槍(あめのひぼこ)・・新羅の王家の者と伝えられる・・韓鍛冶集団の渡来・・出石
(いずし)神社(兵庫県豊岡・但馬国一之宮)


火・・たたら・・火之迦大神(ひのかぐつちのおおかみ)・・秋葉神社(静岡県浜松)愛
宕神社(京都右京区)

百足:三上山(天目一箇神)・赤城山(大巳貴神)・信貴山(毘沙門天)・二荒山(大
巳貴神)

東南風・・イナサー東南風は黒金をも通す(鹿島)・・武甕槌大神タケミカヅチノカミ
(物部の神)・・鹿島神宮

経津主(ふつぬし)・・星神・・鉱山は星が育成すると考えた・・香取神宮(千葉)鹿島
神宮(茨城)春日大社(奈良)塩釜神社(宮城)

山の神・・大山祇命(おおやまつみのみこと)・・大山祇神社(愛媛)三島大社(静岡)
大山阿夫利神社(神奈川)寒川神社(神奈川・古代の祭神が大山祇といわれている)

小人・・小さ子・・小人部・・一寸法師・・少彦名神スクナヒコノカミ(体が小さく大
国主とともに国造りに関わる・温泉・酒)・・大国主系、淡島系神社・・出雲大社・・
気多神社・・大神神社・・伊福部氏

河童・・川子大明神・・水天狗・・海御前(二位の尼と安徳天皇の後を追って入水し、
河童になった伝説)・・水天宮


巨人・・ダイダラボッチ・・デイタラボッチ・・たたら・・榛名湖・・富士山・・浅間
山・・筑波山・・赤城山・・浜名湖・・世田谷区代田・・相模大野の鹿沼・・鬼怒川・
・利根川・・秋田太平山・・羽黒山など。

跛者・・びっこ・・足萎え・・恵比寿・・西宮神社(兵庫県西宮)

吹く・・伊吹・・伊福部・・銅鐸・・スズ・・諏訪系神社

吹く・・できもの・・疱瘡神(牛頭天王)・・素戔嗚尊・・八坂神社(京都)

丹生タンショウ・・誕生―出産、安産の神・・丹生神社(にゅうじんじゃ)(和歌山)・
・丹生津姫(紀元前8世紀春秋戦国時代に渡来した呉の太白の血筋の姫)・・丹生津姫
神社(和歌山)

八大天狗・・山伏・・愛宕山(太郎坊、京都)・鞍馬山(僧正坊、京都)・比良山(次
朗坊、滋賀)・英彦山(豊前坊、福岡)・飯縄山(三郎、長野)・大峰山(前鬼坊、奈
良)・白峰山(相模坊、香川)・相模大山(伯耆坊、神奈川)

天狗・・秋葉山(三尺坊)羽黒山(金光坊)高尾山(飯縄権現)大雄山最乗寺(金太郎
)など
    出羽三山・・月読命月山神社・・羽黒権現出羽(いでは)神社・・大巳貴命・・
大山祇命・・湯殿山神社

鬼・・温羅(うら)・・吉備津(きびつ)神社の鳴釜神事の竈の下に温羅の首を埋めた・・
死体を南方の柱に結び付けると鉄がわく(たたら)

吉備津彦命(四道将軍・温羅伝説・桃太郎伝説)吉備津神社(岡山・備中一之宮・矢立
神事)・・大江山の鬼退治(銅鉱脈)・・鬼嶽稲荷神社稲荷大神


一寸法師・・清水寺(十一面千手観音)の音羽の滝、音羽山(金、銀、銅がとれ元清水
寺の地といわれる・京都)

坂上田村麻呂(清水寺寄進)・・鬼退治伝説の地は、東北の鉱脈が多い

湯・・湯立神事・・大湯坐―唖(ホムツワケ火持別で、火中生誕)・・白鳥が鳴いたら
唖が治った・・天湯河板挙(神(あめのゆかわたなのかみ)(白鳥を献じた人)天湯河田
神社(鳥取)・・金屋子神の乗った白鷺―客神(まろうど)・・白鳥・・餅・・矢・・矢
にまつわる神事(弓矢は釣針と同一・幸福をもたらし、霊力がある)


朝日・・日吉・・日野・・猿・・日光二荒山・・俵藤太・・三上山・・百足山・・炭焼
藤太・・淘汰―金、砂鉄を水で淘る(ゆる)

木地師・・惟喬親王・・小野・・小野氏・・小野氏の流れの柿本人麻呂・・鍛冶・・米
餠搗大使命(たかねつきおおおみのみこと)小野神社製鉄地に多くある神社

お歯黒・・鉄漿(かね)・・鉄・・羽黒山神社・・鉄を多く含むハグロ石・・鉄鉱泉・・
修験道・・出羽三山・・湯殿山神社(大巳貴神)

修験道・・鉱山・・もともと修験道は神仙薬を探し求めた(水銀、ヒ素)・・不老長寿
薬・・中央構造線

水銀―・・丹生・・丹生津姫(大陸から渡来した姉妹でのちに天照大神と丹生津姫にな
った)・・お遠敷(おにう)明神(二月堂のお水取りで若狭から水を送る神)・・罔象女
(みずはのめ)(天照大神の子で漂う神)水神・・ミズハー水刃(金属)

毘沙門天・・製鉄神・・鞍馬山(鞍馬寺)、愛宕山、信貴山(朝護孫子寺・毘沙門天・
奈良)

妙見神・・秩父神社(埼玉)千葉神社(千葉)日蓮宗の寺(妙見菩薩)

不動明王・・産鉄地に多い 真言宗、天台宗の寺院

虚空蔵菩薩・・妙見神・・北辰信仰・・虚空蔵山(佐賀、水銀・波佐見鉱山)虚空蔵尊
(高知、金)虚空蔵尊(三重、金剛証寺、銅、クロム、コバルト、鉄、ニッケル)能勢
妙見(大阪、金、銀、銅)磐裂(いわさく)神社(栃木・足尾銅山)七面天女―吉祥天―
妙見神(山梨・敬慎院・甲州金)清澄寺(虚空蔵菩薩・妙見尊・金剛薩?―ダイヤモン
ドのように堅く不変の金属・角閃石・斜長石・黒雲母・丹生など)

東北のキリシタン・・南蛮製鉄を伝え、伊達藩では産業擁護のため、キリシタンの多い
製鉄民を保護していたが、幕府に逆らえず、処罰した。(岩手県東磐井郡大籠)



参考:金属と地名、青銅の神の足跡:谷川健一 
隠された古代:近江雅和 
黄金と百足、金属鬼人柱:若尾五男 
日本古代祭祀と鉄、古代の鉄と神々:真弓常忠 
風と火の古代史(よみがえる産鉄民):柴田弘武 
鉄の民俗史:窪田蔵郎 
神々と天皇の間:鳥越憲三郎 
杉山神社考:戸倉英太郎 
古代山人の興亡:井口一幸  
弥生時代のはじまり:春成秀爾  
ながされびと考:杉本苑子
伊勢の神宮ヤマトヒメ御遷幸のすべて:大阪府神社庁 
古代の製鉄:山本博 
古代伝説の旅(電車・バス・徒歩でたどる東急沿線):新井恵美子 
靖国刀:トム岸田 
鉄から読む日本の歴史、 新羅花苑(壬申の乱異聞):宇田伸夫 
日本科学古典書(鉄山秘書):三枝博音  
まぼろしの鉄の旅:倉田一良 
古代東北エミシの謎 日本の神々:鎌田東二 
鬼の日本史:沢史生 
鶴見川流域の考古学:坂本彰  
空海と錬金術:佐藤仁 
空海の風景:司馬遼太郎 
古代史を解く九つの謎:黒岩十吾 
日本神話の謎がわかる:松前健 

HP:中央構造線と古代史を考える 
  伊太祁曾さんの風土記 
  博物館ニュース 
  坂東千年王国  
  日立金属 和鋼博物館  
  ウイキペデイア

神への信仰と製鉄

鉄の持つ力と火を仲介とした生活へのかかわりからこれを信仰の対象とすることが
多く見られる。

全国の神社の祭神等からそれを少し見ていきたい。

1)稲・・稲妻・・雷神・・餅・・
武甕槌大神タケミカヅチ(宮城・塩釜神社)
賀茂別雷命(京都・上賀茂神社・葛城を本拠にした渡来人で製鉄技術を伝えた秦氏の氏
神)
建御雷神(塩釜神社)

2)稲・・鋳成り(いなり)・・稲荷・・
宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)豊宇気毘売(とようけびめ))
御饌津神(みけつのかみ)・・三尻神・・三狐神・・伏見稲荷

3)蛇・・龍・雷・虹・菖蒲の葉・刀―
建御名方神タケミナカタノカミ(大国主の子)・・諏訪大社
蛇・・三輪山・・大物主大神(おおものぬしのおおかみ)・大巳貴神(おおなむちのかみ)
・・大神(おおみわ)神社

4)金山彦・・イザナミの子・・南宮大社(岐阜)・・黄金山神社(宮城・金崋山)

5)金屋子神(かなやこのかみ)=天目一箇神(あめのまひとつのかみ)
・・金屋子神社(島根)

6)一つ目小僧・・片目伝説・・一目連(いちもくれん)・・
天目一箇神(あめのまひとつのかみ)・・天津麻羅(あまつまら)・・
多度大社(三重県桑名)・・天目一神社(兵庫県西脇)
風の神・・一目連(いちもくれん)・・多度大社・・龍田神社(奈良県生駒にあり、法隆
寺の鎮守)

7)風の神・・蚩尤(しゆう)(武器の神・風を支配)
・・兵主神(ひょうずのかみ)・・穴師坐兵主(あなにいますひょうず)神社(奈良)
・・伊太祁曽(いたきそ)神社(和歌山)・・五十猛命(いそたけるのみこと)(木の神)

8)天日槍(あめのひぼこ)・・新羅の王家の者と伝えられる・・韓鍛冶集団の渡来・・
出石
(いずし)神社(兵庫県豊岡・但馬国一之宮)

9)火・・たたら・・火之迦大神(ひのかぐつちのおおかみ)・・秋葉神社(静岡県浜松
)愛
宕神社(京都右京区)

10)百足:三上山(天目一箇神)・赤城山(大巳貴神)・信貴山(毘沙門天)・二荒
山(大
巳貴神)

11)東南風・・イナサー東南風は黒金をも通す(鹿島)・・武甕槌大神タケミカヅチ
ノカミ
(物部の神)・・鹿島神宮

経津主(ふつぬし)・・星神・・鉱山は星が育成すると考えた・・香取神宮(千葉)鹿島
神宮(茨城)春日大社(奈良)塩釜神社(宮城)

12)山の神・・大山祇命(おおやまつみのみこと)・・大山祇神社(愛媛)三島大社(
静岡)
大山阿夫利神社(神奈川)寒川神社(神奈川・古代の祭神が大山祇といわれている)

13)湯・・湯立神事・・大湯坐―唖(ホムツワケ火持別で、火中生誕)・・白鳥が鳴
いたら
唖が治った・・天湯河板挙(神(あめのゆかわたなのかみ)(白鳥を献じた人)天湯河田
神社(鳥取)・・金屋子神の乗った白鷺―客神(まろうど)・・白鳥・・餅・・矢・・矢
にまつわる神事(弓矢は釣針と同一・幸福をもたらし、霊力がある)

14)朝日・・日吉・・日野・・猿・・日光二荒山・・俵藤太・・三上山・・百足山・
・炭焼
藤太・・淘汰―金、砂鉄を水で淘る(ゆる)

15)木地師・・惟喬親王・・小野・・小野氏・・小野氏の流れの柿本人麻呂・・鍛冶
・・
米餠搗大使命(たかねつきおおおみのみこと)小野神社製鉄地に多くある神社

16)お歯黒・・鉄漿(かね)・・鉄・・羽黒山神社・・鉄を多く含むハグロ石・・鉄鉱
泉・・
修験道・・出羽三山・・湯殿山神社(大巳貴神)

参考:金属と地名、青銅の神の足跡:谷川健一 
隠された古代:近江雅和 
黄金と百足、金属鬼人柱:若尾五男 
日本古代祭祀と鉄、古代の鉄と神々:真弓常忠 
風と火の古代史(よみがえる産鉄民):柴田弘武 
鉄の民俗史:窪田蔵郎 
神々と天皇の間:鳥越憲三郎 
杉山神社考:戸倉英太郎 
古代山人の興亡:井口一幸  
弥生時代のはじまり:春成秀爾  
ながされびと考:杉本苑子
伊勢の神宮ヤマトヒメ御遷幸のすべて:大阪府神社庁 
古代の製鉄:山本博 
古代伝説の旅(電車・バス・徒歩でたどる東急沿線):新井恵美子 
靖国刀:トム岸田 
鉄から読む日本の歴史、 新羅花苑(壬申の乱異聞):宇田伸夫 
日本科学古典書(鉄山秘書):三枝博音  
まぼろしの鉄の旅:倉田一良 
古代東北エミシの謎 日本の神々:鎌田東二 
鬼の日本史:沢史生 
鶴見川流域の考古学:坂本彰  
空海と錬金術:佐藤仁 
空海の風景:司馬遼太郎 
古代史を解く九つの謎:黒岩十吾 
日本神話の謎がわかる:松前健 

HP:中央構造線と古代史を考える 
  伊太祁曾さんの風土記 
  博物館ニュース 
  坂東千年王国  
  日立金属 和鋼博物館  
  ウイキペデイア
 古代の鉄に関する書物で雨読で紹介済みのものは以下のとおりである。
 「古代の鉄と神々」真弓常忠  神道学、神道史学、祭祀学
 「和鉄の文化」井塚政義、実業界出身、大同工業大学名誉教授
 「鉄の生活史」窪田蔵郎、明治大学専門部法科卒、鉄鋼連盟入社、たたら研究会
 「鉄の語る日本の歴史」飯田賢一、東洋大学文学部哲学科卒、技術史思想史専攻
 「たたら」黒岩俊郎東大工学部冶金学科卒、技術論、資源論教授
 そして今回は
 「古代の製鉄」山本博、九州帝大法文学部国史科卒、日本考古学協会・日本歴史学会
会員、文学博士
 昭和50年9月初版、学生社発行、借本京都市中央図書館

2016年6月15日水曜日

神への信仰から鉄生産をさぐる

屋子信仰―白鷺にのって出雲に降り立ち、桂の木(神木)で休んでいたところ、土地の宮司の祖先阿倍氏に会い、製鉄を教えた。中国地方各地に伝説があり、村下となった。

一般に女神とされる。麻につまずいて死んだので麻が嫌い。
犬に追いかけられて蔦に登って逃れようとしたが蔦が切れて落ち、犬にかまれて死んだので蔦と犬は嫌い。

他説では犬に追いかけられみかんの木に登り、藤に掴まって助かったのでみかんと藤は好き。
死体を桂の木に下げると大量に鉄が生産できるので、死体を好んだ。
自分が女性なので、嫉妬からか女性が嫌い。村下は女性のはいった湯にはつからない。

鉄・鍛冶の神


稲・・稲妻・・雷神・・餅・・武甕槌大神タケミカヅチ(宮城・塩釜神社)賀茂別雷命(京都・上賀茂神社・葛城を本拠にした渡来人で製鉄技術を伝えた秦氏の氏神)・・建御雷神(塩釜神社)

稲・・鋳成り(いなり)・・稲荷・・宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)豊宇気毘売(とようけびめ))・御饌津神(みけつのかみ)・・三尻神・・三狐神・・伏見稲荷

蛇・・龍・雷・虹・菖蒲の葉・刀―建御名方神タケミナカタノカミ(大国主の子)・・諏訪大社

蛇・・三輪山・・大物主大神(おおものぬしのおおかみ)・大巳貴神(おおなむちのかみ)・・大神(おおみわ)神社

金山彦・・イザナミの子・・南宮大社(岐阜)・・黄金山神社(宮城・金崋山)

金屋子神(かなやこのかみ)=天目一箇神(あめのまひとつのかみ)・・金屋子神社(島根)

一つ目小僧・・片目伝説・・一目連(いちもくれん)・・天目一箇神(あめのまひとつのかみ)・・天津麻羅(あまつまら)・・多度大社(三重県桑名)・・天目一神社(兵庫県西脇)

風の神・・一目連(いちもくれん)・・多度大社・・龍田神社(奈良県生駒にあり、法隆寺の鎮守)

風の神・・蚩尤(しゆう)(武器の神・風を支配)・・兵主神(ひょうずのかみ)・・穴師坐兵主(あなにいますひょうず)神社(奈良)・・伊太祁曽(いたきそ)神社(和歌山)・・五十猛命(いそたけるのみこと)(木の神)


天日槍(あめのひぼこ)・・新羅の王家の者と伝えられる・・韓鍛冶集団の渡来・・出石(いずし)神社(兵庫県豊岡・但馬国一之宮)


火・・たたら・・火之迦大神(ひのかぐつちのおおかみ)・・秋葉神社(静岡県浜松)愛宕神社(京都右京区)

百足:三上山(天目一箇神)・赤城山(大巳貴神)・信貴山(毘沙門天)・二荒山(大巳貴神)

東南風・・イナサー東南風は黒金をも通す(鹿島)・・武甕槌大神タケミカヅチノカミ(物部の神)・・鹿島神宮

経津主(ふつぬし)・・星神・・鉱山は星が育成すると考えた・・香取神宮(千葉)鹿島神宮(茨城)春日大社(奈良)塩釜神社(宮城)

山の神・・大山祇命(おおやまつみのみこと)・・大山祇神社(愛媛)三島大社(静岡)大山阿夫利神社(神奈川)寒川神社(神奈川・古代の祭神が大山祇といわれている)

小人・・小さ子・・小人部・・一寸法師・・少彦名神スクナヒコノカミ(体が小さく大国主とともに国造りに関わる・温泉・酒)・・大国主系、淡島系神社・・出雲大社・・気多神社・・大神神社・・伊福部氏

河童・・川子大明神・・水天狗・・海御前(二位の尼と安徳天皇の後を追って入水し、河童になった伝説)・・水天宮


巨人・・ダイダラボッチ・・デイタラボッチ・・たたら・・榛名湖・・富士山・・浅間山・・筑波山・・赤城山・・浜名湖・・世田谷区代田・・相模大野の鹿沼・・鬼怒川・・利根川・・秋田太平山・・羽黒山など。

跛者・・びっこ・・足萎え・・恵比寿・・西宮神社(兵庫県西宮)

吹く・・伊吹・・伊福部・・銅鐸・・スズ・・諏訪系神社

吹く・・できもの・・疱瘡神(牛頭天王)・・素戔嗚尊・・八坂神社(京都)

丹生タンショウ・・誕生―出産、安産の神・・丹生神社(にゅうじんじゃ)(和歌山)・・丹生津姫(紀元前8世紀春秋戦国時代に渡来した呉の太白の血筋の姫)・・丹生津姫神社(和歌山)

八大天狗・・山伏・・愛宕山(太郎坊、京都)・鞍馬山(僧正坊、京都)・比良山(次朗坊、滋賀)・英彦山(豊前坊、福岡)・飯縄山(三郎、長野)・大峰山(前鬼坊、奈良)・白峰山(相模坊、香川)・相模大山(伯耆坊、神奈川)

天狗・・秋葉山(三尺坊)羽黒山(金光坊)高尾山(飯縄権現)大雄山最乗寺(金太郎)など
    出羽三山・・月読命月山神社・・羽黒権現出羽(いでは)神社・・大巳貴命・・大山祇命・・湯殿山神社

鬼・・温羅(うら)・・吉備津(きびつ)神社の鳴釜神事の竈の下に温羅の首を埋めた・・死体を南方の柱に結び付けると鉄がわく(たたら)

吉備津彦命(四道将軍・温羅伝説・桃太郎伝説)吉備津神社(岡山・備中一之宮・矢立神事)・・大江山の鬼退治(銅鉱脈)・・鬼嶽稲荷神社稲荷大神


一寸法師・・清水寺(十一面千手観音)の音羽の滝、音羽山(金、銀、銅がとれ元清水寺の地といわれる・京都)

坂上田村麻呂(清水寺寄進)・・鬼退治伝説の地は、東北の鉱脈が多い

湯・・湯立神事・・大湯坐―唖(ホムツワケ火持別で、火中生誕)・・白鳥が鳴いたら唖が治った・・天湯河板挙(神(あめのゆかわたなのかみ)(白鳥を献じた人)天湯河田神社(鳥取)・・金屋子神の乗った白鷺―客神(まろうど)・・白鳥・・餅・・矢・・矢にまつわる神事(弓矢は釣針と同一・幸福をもたらし、霊力がある)


朝日・・日吉・・日野・・猿・・日光二荒山・・俵藤太・・三上山・・百足山・・炭焼藤太・・淘汰―金、砂鉄を水で淘る(ゆる)

木地師・・惟喬親王・・小野・・小野氏・・小野氏の流れの柿本人麻呂・・鍛冶・・米餠搗大使命(たかねつきおおおみのみこと)小野神社製鉄地に多くある神社

お歯黒・・鉄漿(かね)・・鉄・・羽黒山神社・・鉄を多く含むハグロ石・・鉄鉱泉・・修験道・・出羽三山・・湯殿山神社(大巳貴神)

修験道・・鉱山・・もともと修験道は神仙薬を探し求めた(水銀、ヒ素)・・不老長寿薬・・中央構造線

水銀―・・丹生・・丹生津姫(大陸から渡来した姉妹でのちに天照大神と丹生津姫になった)・・お遠敷(おにう)明神(二月堂のお水取りで若狭から水を送る神)・・罔象女(みずはのめ)(天照大神の子で漂う神)水神・・ミズハー水刃(金属)

毘沙門天・・製鉄神・・鞍馬山(鞍馬寺)、愛宕山、信貴山(朝護孫子寺・毘沙門天・奈良)

妙見神・・秩父神社(埼玉)千葉神社(千葉)日蓮宗の寺(妙見菩薩)

不動明王・・産鉄地に多い 真言宗、天台宗の寺院

虚空蔵菩薩・・妙見神・・北辰信仰・・虚空蔵山(佐賀、水銀・波佐見鉱山)虚空蔵尊(高知、金)虚空蔵尊(三重、金剛証寺、銅、クロム、コバルト、鉄、ニッケル)能勢妙見(大阪、金、銀、銅)磐裂(いわさく)神社(栃木・足尾銅山)七面天女―吉祥天―妙見神(山梨・敬慎院・甲州金)清澄寺(虚空蔵菩薩・妙見尊・金剛薩埵―ダイヤモンドのように堅く不変の金属・角閃石・斜長石・黒雲母・丹生など)

東北のキリシタン・・南蛮製鉄を伝え、伊達藩では産業擁護のため、キリシタンの多い製鉄民を保護していたが、幕府に逆らえず、処罰した。(岩手県東磐井郡大籠)



参考:金属と地名、青銅の神の足跡:谷川健一 
隠された古代:近江雅和 
黄金と百足、金属鬼人柱:若尾五男 
日本古代祭祀と鉄、古代の鉄と神々:真弓常忠 
風と火の古代史(よみがえる産鉄民):柴田弘武 
鉄の民俗史:窪田蔵郎 
神々と天皇の間:鳥越憲三郎 
杉山神社考:戸倉英太郎 
古代山人の興亡:井口一幸  
弥生時代のはじまり:春成秀爾  
ながされびと考:杉本苑子
伊勢の神宮ヤマトヒメ御遷幸のすべて:大阪府神社庁 
古代の製鉄:山本博 
古代伝説の旅(電車・バス・徒歩でたどる東急沿線):新井恵美子 
靖国刀:トム岸田 
鉄から読む日本の歴史、 新羅花苑(壬申の乱異聞):宇田伸夫 
日本科学古典書(鉄山秘書):三枝博音  
まぼろしの鉄の旅:倉田一良 
古代東北エミシの謎 日本の神々:鎌田東二 
鬼の日本史:沢史生 
鶴見川流域の考古学:坂本彰  
空海と錬金術:佐藤仁 
空海の風景:司馬遼太郎 
古代史を解く九つの謎:黒岩十吾 
日本神話の謎がわかる:松前健 

HP:中央構造線と古代史を考える 
  伊太祁曾さんの風土記 
  博物館ニュース 
  坂東千年王国  
  日立金属 和鋼博物館  
  ウイキペデイ

2016年5月31日火曜日

たたら製鉄

http://www2.memenet.or.jp/kinugawa/hp/hp633.htm

 日本で完成した「たたら製鉄」

 たたら製鉄は、粘土でつくった箱の形をした低い炉に、原料の砂鉄と還元のための木
炭を入れて、風を送り、鉄を取り出す日本古来からの鉄を作る技術です。 6世紀後半(
古墳時代後期)に朝鮮半島から伝えられ、江戸時代中期に技術的に完成しました。

 昼夜にわたる鉄づくり(現在行われている日刀保たたらでは)砂鉄を集めて、炭を作り
、炉を作ってから操業が始まります。 炉の下から風を送りながら、木炭と砂鉄をかわ
るがわる入れます。時間がたつとともに、砂鉄は還元され鉄になります。 さらに炭素
を吸収してズクが炉の下の穴から流れ出ます。そして最後にケラができます。1回の操
業は、3昼夜、約70時間にもおよび、 炉の壁が侵食されて薄くなり、耐えられなく
なったところで終了します。炉の壁の成分と砂鉄が反応して生まれたフロ(スラグ)」は
、 鉄の不純物を取り除き、再酸化を防ぐ役割をします。

「たたら製鉄」から生まれる鉄

そのようにして炉の底にできた鉄の塊は、砕いてノロや木炭を取り除いた後、品質や大
きさで数種類の等級の「ズク(銑)」や「ケラ(鉧)」などに分けられます。 硬くて脆い
ズクは、「大鍛冶場」でさらに不純物を絞り出し、炭素量を調整して、生活に必要な道
具の材料となりました。 ケラの中でも不純物の少ない良質な鋼「玉鋼」は日本刀の材
料となります。少量ですが簡単な構造で、優れた鉄を作ることができるrたたら」は、 
今日でも鉄づくりについて貴重なメッセージを送ってくれています。 

画像をクリックすると、たたら製鉄の全プロセスが現れます。

鉄の未来の『新・モノ語り』  新日本製鐵(株) 2004年 より 

釘づくり  一曜斎 国輝

 たたら製鉄では刀鍛冶用の玉鋼のほかに包丁鉄とずく鉄(鋳造用)を生産していまし
た。 江戸時代の釘づくりは包丁鉄を素材として、赤熱した素材を必要な巾にタガネで
切り落とし 釘の素材としました。現在のように丸い断面を持つ鉄線からの製作ではな
く、角材に近い素材なのです。

 船釘やふすま釘など断面が正方形や長方形の釘がほとんどでした。唯一、丸断面を持
つものは 城や寺社の瓦を止めた、大きな瓦釘くらいではないでしょうか?写真の釘は
書写山円教寺(姫路市)の 塔頭(たっちゅう)十妙院修理の時に得られたものです。
寺院の古文書によれば1558(永禄元)年に 建てられたものです。しかし、建築様式か
らみると江戸時代初期ではないかとも言われています。

 現在の金物産地のうち、三条(新潟県)、鞆(広島県)などは釘鍛冶から発展したと
言われています。 姫路ではわずかに『ふすま釘』が生産されています。この絵は『衣
食住之内家職幼絵解之図』によります。


『衣食住之内家職幼絵解之図』は33枚から成り、明治6年、文部省から教育用として出
版された。 筆者は一曜斎国輝(二代)である。天保元年に生れ、明治7年に没、45歳で
あった。明治初期の開化風景、 また文部省などの需めにより多くの教育用の錦画を製
作している。本図は明治ではあるが、なお江戸期の 職人の活動をそのまま伝えている
。


日本の技術 産業技術を描く  吉田光邦 著 第一法規出版 1988年

錬鉄 七枝刀

 目の後ろにバネが入っています
 錬鉄とは良く錬られた鉄のことです。昔、日本の製鉄は温度が低く鉄の融点1535
℃ までは上昇しませんでした。そこで、溶けてしまわないスポンジ状の鉄塊、海綿鉄
を作り ました。

 この鉄を何度も何度も折り返し鍛接して、鉄滓(てっさい=不純物)を取り除き鉄を
作 ります。こんな鉄のことを『百錬』の鉄と言いました。大鍛冶屋の作った割鉄(包
丁鉄) では炭素量が0.1 %程度です。イギリスで言うロートアイロン(錬鉄)も良く
似た鉄です。

 奈良県天理市の石上(いそのかみ)神宮に古来より神宝として伝えられた鉄剣。『七
枝刀』 は左右交互に各3個の分枝をもつ特異な形状で、<日本書紀>神功紀52年条
の〈七枝刀 (ななつさやのたち)〉だと言われています。この刀身の表裏両面に金象
嵌された61文字 の銘文があります。判読が困難な部分が多く、色々の案が出されて
いますが、ここでは、 古田武彦(ふるた・たけひこ)氏の説『古代は輝いていたI』
(朝日新聞社 1985)か ら紹介します。

剣の形状をしてはいますが、突き出した枝は戦闘には使えず、柄を固定するための目釘
 穴もありません。戦場で使うためではなく、儀礼のために作られた珍しい形の剣です
。

《表面》  泰和四年五月十六日丙午正陽 造百練□七支刀 □辟百兵 宜供供侯王 
□□□□作

 解釈:泰和4年(369)5月16日の丙午正陽に、くりかえし鍛え抜いた七
    支刀を造った。おびただしい軍兵をしりぞける(に足りる霊力をもつ)。
    これは(中国の天子の外臣たる)侯王に供するにふさわしいものである。
    某々作。 《裏面》  先世以来 未有此刃 百済王世子 奇生聖晋 故為倭王
旨造 伝示□世

 解釈:先の世以来、かつてこのような刃(じん=ほこ)はなかった。百済王と
    その世子は、聖晋のもとにその生を寄りどころにしている。故に(同じ
    東晋の天子の配下の侯王たる)倭王の為に造った。伝えて(後)世に示
    さんことを。 

5世紀の古墳時代の出土品に立派な冑(かぶと)と鎧(よろい)がありました。野球帽
の頂点に円い輪をつけ、 ひさしには模様を刻みこんであります。現在、こんな冑を作
れる職人さんが有るのだろうか?古代の鍛冶屋の 力量に感激しました。
(眉庇付冑=まびさしつきかぶと、熊本 マロ塚古墳 出土) 
 倭国展の資料には甲冑の説明が以下のようになされていました。

甲冑(かっちゅう)
 古墳時代には、鉄板を組み合わせて作った、短甲(たんこう)が古墳に副葬される。
鉄製の甲の出現は武器の 発達をうながし、戦いの方法も大き(変化させた。初めの頃
、短甲は縦長の鉄板を組み合わせ、これを革ひもで とじ合わせたものであったが、次
に方形の鉄板に変わり、さらに三角形の鉄板を多く組み合わせる形に変わった。 そし
て、5世紀には鉄板のつなぎかたも革ひもから鉄の鋲(びょう)でとめる方法に変わっ
ていった。また、 この頃には、騎馬に通した挂甲(けいこう)も出現した。他方、冑
(かぶと)には、先端が尖った 衝角付冑(しょうかくつきかぶと)と、前部に庇(ひ
さし)が付いた眉庇付冑(まびさしつきかぶと)があった。 

 1993年3月、京都国立博物館 倭国展 資料より 


日本最古のくさり

 鉄鐸(さなぎ)
 信濃国一の宮として全国に1万余の御分社をもつ諏訪大社は、諏訪湖を隔てて南北に
上社、下社があります。 上社は本宮と前宮に、下社は春宮と秋宮に別れており、これ
ら4社を合わせて諏訪大社と言います。 上社の祭神は建御名方命(たけみなかたのみこ
と)、下社はその妻の八坂刀売命(やさかとめのみこと)で、 武神・農耕神・狩猟神
・風神として武田信玄など武将の信仰も集めました。社殿は四方を御柱(おんばしら)
に囲まれ、 その内部に東西宝殿、幣殿、拝殿などが配置された諏訪造。上社にはその
背後に神体山(しんたいざん)が、 下社には神木が立つ。建御名方命は出雲神話の国
譲り伝説に登場し、破れて信濃に逃げてきた神です。

 ここには『湛(たたえ)神事』と言われる、古くから行われている行事があります。

その儀式に使われる高鉾に付けられた鉄鐸(さなぎ)は銅鐸の原型と目され、弥生時代
から使われていたのかも知れません。

 鉄鐸は鍛鉄で作られ高さ約18cm厚さ1.7㎜程度です。鐸の中にぶらさげられた舌(ぜ
つ)は8角形の断面を持っています。 鈴のような綺麗な音ではなく、ガシャンガシャン
という鉄管の触れ合う音で決して荘厳な音ではなかった、と著者は記しています。

 かんぬきに留められた吊り環は舌をぶらさげ、上はひもで鉾につながれた3ケつなぎ
のリンクです。 番号3は溶接なしのリンクですが4は上下のリンクが鍛接リンクのよ
うです。又、6は3リンクとも鍛接されています。 この鉄鐸とリンクが同じ時期のも
のとすれば日本最古、弥生時代の鎖です。 もちろん、傷みによって何度か修理もされ
ているようですが。

参考図書  銅鐸  藤森栄一  学生社  1964年

たたら製鉄 用語集

 ケラと読みます

 ☆ タタラ(高殿)
     タタラとは野鈩(のたたら、露天精錬)の頃は精錬炉をいい、近世に、屋内精錬
に
    移行すると、建物をタタラ(高殿)といい、つぎに付属設備を含めたものをタタラ
(
    鈩)または、タタラ場と呼ぶようになった。
     タタラとはタタール人(ダッタン人)の技法が中央アジアから朝鮮半島を経て日
本
    に伝わったものともいう。また古来日本でフイゴをタタラといっていたが、のちに
製
    鉄炉をさすようになったともいわれる。
    
☆ 天秤フイゴ
     フイゴはタタラ製鉄を行う時に炉内に空気を送り火力をあげるための装置。
     天秤フイゴは出雲では元禄4年(1691)、石見(島根県)では享保年間(1
7
    00年頃)から使用したといわれる。和鋼博物館に展示のフイゴは明治24年製で
、
    石見の若杉タタラで使用していた一人踏みのヤグラ天秤ではある。交代ではあるが
、
    三昼夜の送風は過酷な労働であった。
    
☆ ケラ
     タタラの炉(釜)底にできた鉄塊で炉をこわして引き出す。
    重量は2.5~3.5t。鋼、鉄、銑などが含まれている。
    
☆ 玉鋼(たまはがね)
     ケラは冷却した後、細かく破砕し、玉鋼その他に分ける。玉鋼一級品は純度が極
めて
    高く、最上の日本刀材料で、50年経過しても美しい金属的な光を発している。玉
鋼
    のほかに目白、砂味(じゃみ)、ケラ銑(けらづく)があって、日本刀以外の用途
に使
    用した。
    
☆ 銑(ずく)
     ケラには鋼のほかに流し銑(ずく)とかケラ銑(けらずく)とができる。流し
    銑は製鉄炉(釜)の湯地口から流れ出たもの。ケラ銑はケラを破砕した時に出る銑
であっ
    て、いずれも鋳物の材料とか、包丁鉄の原料に使用した。炭素1.7%以下のもの
。
    
☆ 包丁鉄(ほうちょうてつ)錬鉄(れんてつ)
     銑(ずく)や歩ケラ(ぶけら)(玉鋼と銑の中間の炭素量)を大鍛冶場の火窪(
ほど
    )で脱炭し鍛冶して作ったもの。“割り鉄”とも“延べ鉄”ともいい、低炭素の錬
鉄
    で、刀工はこれを刀の心鉄にするが、一般的には日用刃物・釘その他の柔らかい鉄
材
    料に使用した。


☆ 砂鉄(タタラ製鉄の原料)  砂鉄は採取の場所により山砂鉄、川砂鉄、浜砂鉄と
呼ぶ。また   中国地方の山砂鉄は真砂(まさ)と赤目(あこめ)に分かれる。   
玉鋼を造るケラ押法(けらおしほう)には純度の高い真砂砂鉄を用い、   銑押法(
ずくおしほう)(鋳物及び、包丁鉄の原料になる銑鉄を   つくる)では赤目砂鉄を
用いた。 ☆ 木炭(砂鉄還元に使用)  タタラ吹きに使用する木炭は主に「なら」「
まき」「ぶな」    「くぬぎ」でその他に用いた雑木、地方によっては、    松
、栗を用いた。錬鉄をつくる大鍛冶場では主に松炭を用いた。 ☆ 釜土(粘土)  築
炉用の粘土は苦心して選んだ。花崗岩の風化したもので珪酸   (SiO2 )が適量
で適度な耐火性と鉱滓を造る性質をもつことが    必要で、また、不純物も少ない
ことが条件であった。 和鋼博物館 資料による



たたら考


 小林家に伝わる製鉄図 部分
 たたら考

 『たたら』という発音が、製鉄というプロセスにあてはめられたのは、まさに奇妙で
す。たたらは 鑪・鈩・蹈鞴・踏鞴・高殿、など色々な文字で表されます。
 元々、踏みふいごのことか?平安時代(934年)の百科辞典、『和名類聚抄』には踏
みふいごの事と書かれています。 江戸時代になって永代たたらが生まれその工場を高
殿と書き、たたらと呼ばれました。

 たたらの語源

 中央アジアの民族タタール人が持っていふいた『皮袋』が、製鉄作業の送風器具(吹
子)に使われたところから、 『たたら』と名付けられたとも、インド地方の言語『タ
タール=猛火の意味』から転化したとも言われます。 図は岩手県の小林家に伝わる製
鉄絵図の皮吹子です。 


 たたらを踏む

 歌舞伎や芝居の『たたらを踏む』という動作は、製鉄の時に風を送る『吹子』を脚で
踏む動作と よく似ているところから、名付けられたという。
 ちなみに、先年大勢の人が見たアニメ『もののけ姫』にも主人公アシタカが踏みふい
ごを踏む場面がでてきました。

 野たたら

 古代の製鉄場所。製鉄に必要な風を得るため、風当たりの強い小高い丘の斜面に、く
ぼみを造り(火窪、ほと)、 これに砂鉄と木炭を入れ、竹製の管で送風して溶解還元
させ、鉄を炉底に集める原始的なやり方。


たたら考 2


 吉田村 菅谷高殿
 永代たたら

 製鉄は山定の場所に高殿(たたら)という製鉄工場を建て、ここに炉を築いて、計画
的に 生産されるようになる。これを永代たたらという。図は島根県仁多郡吉田村の菅
谷高殿です。

 たたら製鉄

 たたら製鉄は、三昼夜もしくは四昼夜の日程をもって、一回の製鉄を完了する。 こ
の三~四昼夜を『一代』(ひとよ)という。これを一年間に″六十代″繰り返す。 大
体年間に180トン程度の生産能力であったらしい。

日本語大辞典(講談社)には以下の説明がありました。

 たたら  (蹈・鞴・踏鞴)

 足踏み式の大型鞴(ふいご)

たたらの操業風景 横田町
 たたら・ぶき(蹈・鞴吹き)

 日本古来の製鉄法。砂鉄と木炭を交互に方形の炉へ入れ、鞴(ふいご)で風を送り、
 木炭を燃暁させて砂鉄を還元。ケラ押炉で和鋼を、銑押炉で和銑(わずく)を製造。 
写真は日刀保たたらで操業中の木原村下(むらげ)

 たたらづくり
 陶器製造において、粘土のかたまりの左右にたたら棒という板を置き、糸を使って粘
土を スライスする方法を言います。皿などを製作する時に使う方法です。
 たたら製鉄法においては粘土を大きなサイコロ状にしたものを積み上げ、元釜・中釜
と作ります。 このとき独特の定規を使って炉の寸法を決めてゆきます。陶器製造と製
鉄は共に高温を制御する ことにより可能になるので、『陶・鉄、同根』などといわれ
ます。どこかに共通点がありそうです。
 参考図書

  タイムトラベル横田  横田町ふるさと町民会議  1989年
  金属の百科事典    丸善(株)        1999年
  日本語大辞典     講談社          1989年

比良の鉄生産メモ志賀町史第1巻より

比良の鉄生産メモ志賀町史第1巻より

志賀町史第1巻にその記述がある。
P228
比良山麓の製鉄遺跡は、いずれもが背後の谷間に源を持つ大小の河川の
岸に近接してい営まれている。比良の山麓部の谷間から緩傾斜地にでた
河川が扇状地の扇頂に平坦部をつくるが、多くの遺跡はその頂部か斜面
もしくは近接地を選んでいる。、、、、、
各遺跡での炉の数は、鉄滓の分布状態から見て一基のみの築造を原則
とするものと思われる。谷筋の樹木の伐採による炭の生産も、炉操業
にとまなう不可欠な作業である。この山林伐採が自然環境に及ぼす
影響は、下流の扇状地面で生業を営む人々にとっては深刻な問題であって
そのためか、一谷間、一河川での操業は一基のみを原則とし、二基ないし
それ以上に及ぶ同時操業は基本的になされなかったものと思われる。
各遺跡間の距離が五〇〇メートルから七五〇メートル前後とかなり画一的
で、空白地帯を挟む遺跡も1から1.5キロの間隔を保っていることから、
あるいはその数値から見て未発見の炉がその間に一つづつ埋没している
のではないかと思わせるほどである。、、、、
本町域には現在一二か所の製鉄遺跡が確認されている。いずれの遺跡も、
現地には、精錬時に不用物として排出された「金糞」と呼ばれる鉄滓
が多量に堆積している。なかにはこの鉄滓に混じって、赤く焼けたスサまじり
の粘土からなる炉壁片や木炭片なども認められ、その堆積が小さなマウンド
のようにもりあがっているものさえある。
本町域の製鉄原料は砂跌ではなく、岩鉄(鉄鉱石)であったように思われる。

また、木之本町の古橋遺跡などの遺跡から想定すると製鉄の操業年代は、
六世紀末と思われる。
続日本記には、「近江国司をして有勢の家、専ら鉄穴を貪り貧賤の民の採り
用い得ぬことをきんだんせしむ」(天平一四年七四三年十二月十七日)とある。
また日本書紀の「水碓を造りて鉄を治す」(670年)も近江に関する
製鉄関連史料と見ることも出来るので、七世紀から八世紀にかけては
近江の製鉄操業の最盛期であったのであろう。
本町域にはすくなくとも二十基以上の炉があっておかしくない。
是には一集団かあるいは適宜複数集団に分かれた少数の集団が操業していた。
さらに近江地域では、本町域他でも十個ほどの製鉄遺跡群が七,八世紀には
操業していたようである。詳細は二四二ページにある。

さらに、本町域の比良山麓製鉄遺跡群を構成する多くの遺跡の共通する大きな特徴の
一つは、そのなかに木瓜原型の遺跡を含まないことである。木瓜原遺跡では
一つの谷筋に一基の精錬炉だけではなく、大鍛冶場や小鍛冶場を備え、製錬から
精錬へ、さらには鉄器素材もしくは鉄器生産まで、いわば鉄鉱石から鉄器が
作られるまでのおおよそ全工程が処理されていた。しかし、この一遺跡
単一炉分散分布型地域では、大鍛冶、小鍛冶に不可欠なたたら精錬のための
送風口であるふいごの羽口が出土しないことが多い。本町域でもその採集は
ない。山麓山間部での製錬の後、得られた製品である鉄の塊は手軽に運び
出せるように適度の大きさに割られ、集落内の鍛冶工房で、脱炭、鉄器生産
の作業がなされる。小野の石神古墳群三号墳の鉄滓もそのような工程で
出来たものである。しかし、この古墳時代には、粉砕されないままで、河内や
大和に運ばれ、そこで脱炭、鉄器生産がなされるといった流通形態をとる
場合も多くあった。、、、、

近江の鉄生産がヤマト王権の勢力の基盤を支えていた時期があったと思われる。
このような鉄生産を近江で支配していた豪族には、湖西北部の角つの氏、湖北
北部の物部氏、湖南の小槻氏などが推定されるが、比良山麓では和邇氏同族として
多くの支族に分岐しつつも擬制的な同族関係を形成していた和邇部氏が有力な
氏族として推定される。また、ヤマト王権の存立基盤として不可欠であった
鉄生産を拡大しつつ、新しい資源の他地域、他豪族に先駆けての発見、開発は
和邇氏同族にとっての重要な任務であった。早い時期に中国山脈の兵庫県千穂
川上流域にまでかかわっていたらしく、「日本書紀」「播磨国風土記」の記載
を合わせよむと次のように要約できる。播磨国狭夜郡仲川里にその昔、丸部具
そなふというものがおり、この人がかって所持していた粟田の穴合あなから開墾中に
剣が掘り起こされたが、その刃はさびておらず、鍛人を招き、刃を焼き入れしようと
したところ、蛇のように伸びちじみしたので、怪しんで朝廷に献上したという。
どうやら和邇氏同族である栗田氏がかって、砂鉄採取が隆盛を迎える以前の段階に、
この地で鉄穴による鉄鉱石の採掘、そして製錬を行っていたが、後に吉備の
分氏に、おそらく砂鉄による新しい操業方法で駆逐され、衰退していき、その後
かっての栗田氏が鉄穴でまつっていた神剣が偶然にも掘り出されたことに、
この御宅に安置された刀の由来があると考えられる。
このことから、千種川上流域での初期製鉄操業時には和邇氏同族の関与があり、
鉄鉱石で製錬がなされていたことが推測されるが、おそらくヤマト王権の
支配下での鉄支配であったと思われる。これらの地域で製造されたけら(鉄塊)
もまた大和、河内に鉄器の原料として運び込まれたものと推定される。
出雲の製鉄でもその工人は千種から移り住んだものとの伝承もある。
近江の製鉄集団が千種、出雲の工人集団の祖であるといった観念が存在
していたのであろうか。
本町域の鉄資源もまた少なくとも二か所からあるいは二系統の岩脈から
催行していたことがうかがわれる。

鉄の歴史メモ1

鉄の歴史メモ1

日本における鉄の歴史 ①日立金属のHPより

この頃、「鉄」が気になってしかたがない。
今回は
日立金属のページから
http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp020101.htm
引用ばかりですが、先ずひととおり、お勉強しよう。

稲作と鉄の伝来
●鉄の使用の始まり
現在のところ、我が国で見つかった最も古い鉄器は、縄文時代晩期、つまり紀元前3~4世紀のもので、福岡県糸島郡二丈町の石崎曲り田遺跡の住居址から出土した板状鉄斧(鍛造品)の頭部です。鉄器が稲作農耕の始まった時期から石器と共用されていたことは、稲作と鉄が大陸からほぼ同時に伝来したことを暗示するものではないでしょうか。

石崎曲り田遺跡から出土した板状鉄斧
(出典:「弥生の鉄文化とその世界」北九州市立考古博物館)
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弥生時代前期(紀元前2~3世紀)から次第に水田開発が活発となり、前期後半には平野部は飽和状態に達して高地に集落が形成されるようになります。
さらに土地を巡る闘争が激しくなり、周りに濠を回らした環濠集落が高台に築かれます。京都府の丹後半島にある扇谷遺跡では幅最大6m、深さ4.2m、長さ850mに及ぶ二重V字溝が作られていますが、そこから鉄斧や鍛冶滓が見つかっています。弥生時代前期後半の綾羅木遺跡(下関市)では、板状鉄斧、ノミ、やりがんな、加工前の素材などが発見されています。しかし、この頃はまだ武器、農具とも石器が主体です。
◎水田開発で人口が増え、おまけに海のかなたからやってくる人々で満員になっちゃったんだね。だから新しい土地を求めて日本各地に散らばっていったのか。神武もその中の一派だったんでしょうね。東北あたりは又別のルートで日本列島に来たみたいだけど、、、。
朝鮮半島との交流
弥生時代中期(紀元前1世紀~紀元1世紀)になると青銅器が国産されるようになり、首長の権力も大きくなって北部九州には鏡、剣、玉の3点セットの副葬が盛んになります。朝鮮半島南部との交易も盛んで、大陸からの青銅器や土器のほかに、鉄器の交易が行われたことが釜山近郊の金海貝塚の出土品から伺われます。

弥生時代中期中頃(紀元前後)になると鉄器は急速に普及します。それによって、稲作の生産性が上がり、低湿地の灌漑や排水が行われ、各地に国が芽生えます。
後漢の班固(ad32~92)の撰になる『前漢書』に「それ楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国となる。歳時を以て来り献じ見ゆと云う」との記事がありますが、当時倭人が半島の楽浪郡(前漢の植民地)を通じて中国との交流もやっていたことが分かります。実際、弥生中期の九州北部の墓から楽浪系の遺物(鏡、銭貨、鉄剣、鉄刀、刀子、銅製品など)が多数出土しています。
この中に有樋式鉄戈(てっか)がありますが、調査の結果によると鋳造品で、しかも炭素量が低いので鋳鉄脱炭鋼でないかと推定されています。

◎専門的になりすぎて分かりにくいのでこのままながします。

福岡県春日市の門田遺跡から出土した有樋式鉄戈(てっか)
(出典:「弥生の鉄文化とその世界」北九州市立考古博物館)
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●鉄の加工の始まり

鍛冶工房
ここでいう鉄の加工とは、後世まで引き継がれる鉄の鍛冶加工のことです。鉄器の製作を示す弥生時代の鍛冶工房はかなりの数(十数カ所)発見されています。中には縄文時代晩期の遺物を含む炉のような遺構で鉄滓が発見された例(長崎県小原下遺跡)もあります。 弥生時代中期中頃の福岡県春日市の赤井手遺跡は鉄器未製品を伴う鍛冶工房で、これらの鉄片の中に加熱により一部熔融した形跡の認められるものもあり、かなりの高温が得られていたことが分かります。
赤井手遺跡で見つかった鉄素材片
(出典:「弥生の鉄文化とその世界」北九州市立考古博物館)
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発掘例を見ると、鉄の加工は弥生時代中期(紀元前後)に始まったと見てまず間違いないでしょう。しかし、本当にしっかりした鍛冶遺跡はないのです。例えば、炉のほかに吹子、鉄片、鉄滓、鍛冶道具のそろった遺跡はありません。また、鉄滓の調査結果によれば、ほとんどが鉄鉱石を原料とする鍛冶滓と判断されています。鉄製鍛冶工具が現れるのは古墳時代中期(5世紀)になってからです。

鉄器の普及この弥生時代中期中葉から後半(1世紀)にかけては、北部九州では鉄器が普及し、石器が消滅する時期です。ただし、鉄器の普及については地域差が大きく、全国的に見れば、弥生時代後期後半(3世紀)に鉄器への転換がほぼ完了することになります。

さて、このような多量の鉄器を作るには多量の鉄素材が必要です。製鉄がまだ行われていないとすれば、大陸から輸入しなければなりません。『魏志』東夷伝弁辰条に「国、鉄を出す。韓、ワイ(さんずいに歳)、倭みな従ってこれを取る。諸市買うにみな鉄を用い、中国の銭を用いるが如し」とありますから、鉄を朝鮮半島から輸入していたことは確かでしょう。
では、どんな形で輸入していたのでしょうか?
鉄鉱石、ケラのような還元鉄の塊、銑鉄魂、鍛造鉄片、鉄テイ(かねへんに廷、長方形の鉄板状のもので加工素材や貨幣として用いられた)などが考えられますが、まだよく分かっていません。
日本では弥生時代中期ないし後期には鍛冶は行っていますので、その鉄原料としては、恐らくケラ(素鉄塊)か、鉄テイの形で輸入したものでしょう。銑鉄の脱炭技術(ズク卸)は後世になると思われます。

●製鉄の始まり
日本で製鉄(鉄を製錬すること)が始まったのはいつからでしょうか?

弥生時代に製鉄はなかった?
弥生時代の確実な製鉄遺跡が発見されていないので、弥生時代に製鉄はなかったというのが現在の定説です。
今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れますが(広島県カナクロ谷遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ますと、5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当と思われます。
古代製鉄所跡の発掘現場(6世紀後半の遠所遺跡群)
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弥生時代に製鉄はあった?
一方で、弥生時代に製鉄はあったとする根強い意見もあります。それは、製鉄炉の発見はないものの、次のような考古学的背景を重視するからです。
1)弥生時代中期以降急速に石器は姿を消し、鉄器が全国に普及する。
2)ドイツ、イギリスなど外国では鉄器の使用と製鉄は同時期である。
3)弥生時代にガラス製作技術があり、1400~1500℃の高温度が得られていた。
4)弥生時代後期(2~3世紀)には大型銅鐸が鋳造され、東アジアで屈指の優れた冶金技術をもっていた。


最近発掘された広島県三原市の小丸遺跡は3世紀、すなわち弥生時代後期の製鉄遺跡ではないかとマスコミに騒がれました。そのほかにも広島県の京野遺跡(千代田町)、西本6号遺跡(東広島市)など弥生時代から古墳時代にかけての製鉄址ではないかといわれるものも発掘されています。

弥生時代末期の鉄器の普及と、その供給源の間の不合理な時間的ギャップを説明するため、当時すべての鉄原料は朝鮮半島に依存していたという説が今までは主流でした。しかし、これらの遺跡の発見により、いよいよ新しい古代製鉄のページが開かれるかもしれませんね。
島根県今佐屋山遺跡の製鉄炉近くで見つかった鉄滓(和鋼博物館)
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*鉄滓は鉄を製錬した時の不純物。


◎「ひもろぎ逍遥」に葦の根に鉄バクテリアが集まってできる「スズ鉄・古代鉄」について書いてあります。
http://lunabura.exblog.jp/i30

とてもエクサイティングな内容です。本当に古い昔から、鉄をみつけていたのですね。
「スズ鉄」は日本各地にその痕跡があります。でもやっぱり、採れるのは少量だったようです。

●6世紀頃に画期を迎えた製鉄技術
いずれにしても、我が国における製鉄技術は、6世紀頃に画期を迎えたことは確かでしょう。それ以前に弥生製鉄法があったとしても、恐らく小型の炉を用い、少量の還元鉄を得て、主に鍛冶で錬鉄に鍛えるというような、原始的で、非常に小規模なものだったと思われます。この6世紀の画期は朝鮮半島からの渡来工人の技術によってもたらされたものでしょう。

古事記によれば応神天皇の御代に百済(くだら)より韓鍛冶(からかぬち)卓素が来朝したとあり、また、敏達天皇12年(583年)、新羅(しらぎ)より優れた鍛冶工を招聘し、刃金の鍛冶技術の伝授を受けたと記されています。

その技術内容は不明ですが、恐らく鉄鉱石を原料とする箱型炉による製鉄法ではなかったでしょうか。この中には新しい吹子技術や銑鉄を脱炭し、鍛冶する大鍛冶的技術も含まれていたかもしれません。
この官制の製鉄法は、大和朝廷の中枢を形成する大和、吉備に伝えられ、鉄鉱石による製鉄を古代の一時期盛行させたのではないでしょうか。
一方、出雲を中心とする砂鉄製錬の系譜があります。
これがいつ、どこから伝えられたか分かりませんが、恐らく6世紀の技術革新の時代以前からあったのでしょう。やがて、伝来した技術のうち箱型炉製鉄法を取り入れて、古来の砂鉄製鉄と折衷した古代たたら製鉄法が生まれたのではないでしょうか。
古代製鉄の謎は、我が国古代史の謎と同じようにまだ深い霧に包まれています。

●古代のたたら
砂鉄か、鉄鉱石か
近世たたら製鉄では鉄原料として、もっぱら砂鉄を用いていますが、古代では鉄鉱石を用いている例が多いようです。
次の図は中国地方における古代から中世にかけての製鉄遺跡の分布とその使用鉄原料を示したものですが、鉄鉱石を使っているのは古代の山陽側(とくに備前、備中、備後)と、ここには示していませんが、琵琶湖周辺に限られているようです。山陰側その他は、ほとんど砂鉄を用いています。このことは製鉄技術の伝来ルートに違いがあることを暗示しているのかもしれません。
古代~中世の製鉄遺跡における使用鉄原料
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炉の形状
炉の形状は古墳時代の段階では円形、楕円形、方形、長方形と多様です。古代(8~9世紀)になると長方形箱型炉に次第に統一されていきます。
一方、東国では8世紀初頭より半地下式竪型炉が現れ、9世紀には日本海沿岸地域にも広まって、東日本を代表する製鉄炉となっていき、10世紀には九州にも拡散が認められます。この竪型炉は各地での自給的生産を担っていましたが、中世には衰微します。このような西日本と東日本の炉形の違いはなぜ生じたのでしょうか?東と西で製鉄のルーツが違うのでしょうか?まだまだ分からないことが多いのです。

各種古代製鉄炉の分布
出典:古代の製鉄遺跡(製鉄と鍛冶シンポジウム、於広島大学)土佐雅彦、1995、12月
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中世のたたら
中国山地への集中と炉の大型化
中世になると鉄の生産は、主に中国地方、特に近世たたら製鉄の発達した中国山地に集中するようになります。鉄原料はほとんど砂鉄です。

11世紀から13世紀にかけて広島県大矢遺跡など見られるように炉の大型化、地下構造の発達などの画期を迎えます。長方形箱型炉の炉床は舟底形となり、炉体も長さ2m、幅1m程度と近世たたらの規模に近づいてきます。14世紀後半から15世紀に入ると、広島県の石神遺跡や島根県の下稲迫遺跡(しもいなさこいせき)のように本床、小舟状遺構を持ち、近世たたらに極めて近い炉形、地下構造となります。
時代が下るにつれて大型化する傾向が分かります。


メソポタミア地方で発

日本の金属の歴史
見された、これらの金属材料 と加工技術は、ヨーロッパ、アジアなどに広がり、日本へは紀元前200年頃(弥生時代初期)中国、朝鮮を経由して入ってきました。

弥生時代

日本に金属製品生産技術が定着していく過程について、次のように推察されています。
①金属製品の使用段階・・外国より製品輸入
②金属製品の制作段階・・金属原料を輸入し加工 

③金属原料の生産段階・・たたら等による精錬
このように、最初は鉄製の鍛造品や青銅器製品として入ってきましたが、やがて朝鮮半島から技術者集団が移住して鋳造品や鍛造品を生産したと推測されています。
日本の鋳物作りの最初は中国大陸から渡来した銅製品の模倣から始まり、その後銅鐸や腕輪、飾りの鋲など日本独特の製品が作られました。
銅製品については、主に装飾品や祭器などに使われ、実用品としては鉄で作